おとといは本当に怖い思いをしました。
夕方5時20分ごろに発生した地震と、
それにともなう津波警報。
3月11日の恐怖が
まざまざとよみがえりました。


地震が起きたときは、家でDVDを観ていました。
そこに、めまいがするような長い横揺れ。
これは津波をともないそうな地震だと直感的に思い、
すぐにNHKに切り替えました。

電話がつながらなくなるだろうと思い、
揺れがおさまるかおさまらないかのときに
市内の別の場所にいる妹に電話。
高台にある総合体育館で落ち合おうと言って
電話を切りました。


ほどなくテレビには
「津波警報」の大きな文字が赤で表示され、
アナウンサーが

「津波が来ます。すぐに避難してください。
 あの東日本大震災を思い出してください。」

と避難を繰り返し訴えています。


パニックになりそうになるのを
必死で抑えながらダウンをひっかけ、
防災用品のリュックと貴重品をつかんで、
発生から5分以内に
車で避難を開始しました。

めざす総合体育館は自宅から車で6、7分。
大通りをはずしていけば、
それほどかからずたどり着くはずです。

でも、それは大きな間違いだったのです。

ちょうど夕方のラッシュに当たったこともあり、
地震直後に避難を開始したのにも関わらず、
すでに渋滞が始まっていました。

家からほんの200メートルほどのところにある
最初の信号にたどりつくのでさえ難しい状況です。

とっさに車列を離れ、
大きな駐車場を横切って
青信号の時間が長い大通りから
体育館に向かう道に入りました。

しかし、状況は同じでした。
車の列はますます長くなり、
ずっと先の方まで赤いテールランプが続いています。

なのに車はほとんど進まず、
ゴールデンウイークのときのようなノロノロ運転。
時間だけが刻々と過ぎて行きます。


車のラジオから、

「津波が到達するまであと5分しかありません。
 すぐに避難してください!」

という声が何度も聞こえ、
ますます焦り始めました。

体育館にたどりつくまで
まだ半分以上も道のりがあるのです。

外の音を聞こうと窓を開けると、
津波警報が発令されたことを知らせる
サイレンが鳴り響き、
避難をうながす防災無線が
繰り返し放送されていました。

ああ、3月11日と同じだ・・・。



$はだしの圭の「はだしのまんまで歩いて行こう」



あのときも
車の渋滞にはまって前にも後ろにも動くことができず、
そのまま津波に流された人たちが大勢いたのです。

テレビのニュースやインターネットで見た
そのときの映像が、
まざまざと浮かびました。


今度こそ、だめかもしれない。


恐怖がのどもとまでこみあげ、
ハンドルを握る手が震えました。

このまま妹と約束した体育館に向かうか、
より近くにある中学校へ避難するか、
ふたつにひとつです。

中学校は川の目の前にあり、
津波で浸水した場所です。
できることなら高台の体育館へ向かいたい。

でも、もう選択肢はありませんでした。

近くの空き地に車を乗り捨て、
中学校に向かって走りました。


思ったよりも学校の近くまで来ていたらしく、
2分ほどで校庭にたどりつきました。
あたりは真っ暗でしたが、
1階の職員室と3階までの教室のいくつかに
灯りがともっています。

避難してきた人たちに
上の階の教室を解放しているんだ、
と思いました。

でもそうではなかったのです。

対応にあたっていた教師は
信じられないことに、体育館に行けというのです。

体育館は浸水した校舎と同じ高さの平屋建て。
簡単に津波におそわれる場所です。
高い建物に避難しなければ、まったく意味がありません。

もうびっくりしてしまって、
その教師にかけ合いました。

「先生、体育館は危険です。
 すぐに津波が来るので教室を開放してください!」

「まずは体育館にお入りください。
 様子を見て上の階にあげますから。」

「でも、津波が来たらすぐに体育館は浸水しますよ。
 今のうちに上にあげないでどうするんですか。」

「大丈夫ですから、体育館へ行ってください。」


信じられませんでした。

震災のときも
高さのない体育館に避難して
犠牲になった人たちが大勢いるというのに。

震災からまだそれほど経っていないというのに、
この危機感のなさは、いったい何なんだ・・・。



に続きます。