カフェで原稿を書いていたら隣の席にいたふたりの漁師のおじさんたち(推定70代)が、
自分でつくる今夜の「すばで」(宮城の方言で「酒のさかな」)だの、山形県鶴岡市にあるクラゲの水族館だのの話をしていてちょっとなごんだ。
おじさんAが何かの誘いをかけたら、
「その日は家の大そうじあっからダメだ〜!」
とおじさんBが真剣そのものの顔で断っていて、思わずふきだしそうになってしまった。
年齢や性別をとわず、自分の暮らしに関心を持ち、体を動かす人たちは身がつまっていて信頼できる。
記憶がおぼろげだが、作家の檀一雄(だん・かずお)は著書「壇流クッキング」の中で
「暮らしの楽しみを知った男性たちは、やすやすと戦争などには行かなくなるだろう」
といった趣旨のことを書いていたように思う。
ほんとうにそのとおりだ。
「食べるもの、着るもの、住むところなんてどうだっていい」
というところには、なにかや誰かを愛おしむ気持ちは生まれてこない。
自分自身を大切にあつかう気持ちだって、わいてはこないだろう。
自分の暮らしがどうでもいいのなら、他人の暮らしなんてもっとどうでもよくなってしまう。
そんな心のすきま、自分や他者への関心のないところに
「誰かを傷つけたってかまうものか」
という気持ちが入りこんでくるような気がしてしかたがない。
家の大そうじを大切な予定に入れ、酒のさかなをつくることやクラゲの水族館に心おどらせるおじさんたちのような人たちが、もっともっと増えたらいいな。
ともすれば見すごしてしまいそうな小さなことの連なりは、わたしたちの人生そのものだ。
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⚫︎書いて書いて自分に出会う