息抜きに観出しました -『女医 明妃传』【plot】 | tukicya`s murmur

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   ・*:。o アラスジはありません.。.:*・

*少し内容に触れています。



中国ドラマ
「 女医·明妃传 」<女医.女国医>
The Imperial Doctress
(2016年.50集)

【スタッフ】
脚本:张巍
監督:李国立(リー・クォックリー)
「続・宮廷女官 若曦~輪廻の恋」(2014年)
放送:江苏衛視,东方卫视

【出演者】
劉詩詩(リウ・シーシー)-談允賢 @明朝著名な女国医(六品女官),後に代宗の貴妃,杭皇后
霍建華(ウォレス・フォ)-朱祁鎮(鄭斉) @英宗,明朝第六代皇帝・正統帝.宣徳帝の長子
黄軒(ホアン・シュアン)-朱祁鈺 @代宗.英宗の弟:郕王,明朝第七代皇帝・景泰帝
李呈媛(リー・チョンユアン)-孝荘叡皇后銭氏 @英宗の本妻
袁文康(ユエン・ウェンカン)-綽羅斯·也先@明朝敬順王,大元天聖大可汗,蒙古瓦剌部首領
金晨(ジン・チェン)-汪美麟 @孝淵景皇后,代宗の本妻,郕王妃
何晴(ホー・チン)-孫太后 @孝恭章皇后,宣宗第二任皇后,英宗の母 
何音 (ホー・イン)-呉太妃 @孝翼皇太后,宣宗吳賢妃,代宗の生母
王新民(ワン・シンミン)-譚鋼 @允賢の父
王麗媛(ワン・リーユェン)- 譚老夫人 @允賢の祖母
劉立偉(リュウ・リーウェイ)-劉平安 @允賢の師,医官長
王春元(ワン・チュンユェン) -王道士





【長編予告】《女医·明妃傳》10分片花
(上海尚世影业 SMG Pictures)

【危機編予告】《女医·明妃傳》曝悬念片花 刘诗诗危机四伏
(上海尚世影业 SMG Pictures)



【 PLOT 】




厳格な封建社会の下、男尊女卑が息づく中で医術で人々を救いたい一人の女性が居た、恋・権力争い・さらに兄弟の数奇な天位交代劇が巻き起こる ---

大明国の国家体制は隆盛するが、しかし礼儀道徳は酷薄だ、女性の地位は低く置かれ、医学に従事することが許されず、人に言えない病気も治すのも難しい。

家は医学の名門と語れ、祖先は何代か皆侍医を行った。もと奸物(悪知恵にたけた人)によって陥れ、また壊滅的な災難に遭い、それ以来治療してはならないと古訓を後世に残す。しかし、聡明な談允賢(劉詩詩)は幼い時から知らず知らずのうちに見聞きし影響を受けて、密かに祖母に付き従って学習し中国医学の知識を覚え、ただ悬壶济世(直訳:壺をぶらさげて世を救う=医に従事する人の代名詞)だけでなく、名手仁愛、ありふれた庶民から称賛と支持を手に入れ、一層天下全国を救いたいと女の気持ちが膨んでいった。

このことから、允賢はただ医学を学ぶ道にいるだけなく幾重の困難と障害に直面し、さらに封建社会の礼儀道と衝撃的な世俗観念に直面することを強いられるのである。
だが允賢は医学の職に従事することに対して首丈に熱愛しよりどころにし、山積みの困難を克服するも、単に医術を学ぶだけには留まらず、そのうえ採取し集めて収め、内容・性質の異なったものすべてを受け入れる。自ら一から成し遂げ、その上礼儀道の束縛の厳格を打ち破る。

併せて女医制度を築き創設し、身体を救うことから心を救うまで、重ねて人を救いて国まで救う、祖国の医学文化を発展させ輝かしいものに広め、最終一代の女性国医師となって成し遂げた。天下に名声を挙げるのである。
(参照:Baidu百科より)



ちょこっと印象

『寂寞空庭春欲晚』に熱中していたのだけれど、康熙帝と衛琳琅の気持のすれ違い劇がずっと続いていてちょっと切なくなったので、一旦違うドラマを観てみることにしました。偉大な偉業をなした康熙帝の政をドラマの間に垣間見えたら息抜きできたかも。

そして只今、ドラマ『女医 明妃傳』を見てますが、展開が早く一人の女性の生き方を描いているのでなんとなく韓国ドラマテイストに似ているなっと感じております。服装・装飾品も煌びやかで、龍袍、官服には大量の刺繍が施され、劉詩詩さんは30着、霍建華さんらも20着以上着こなしているらしいです。霍建華さん黄軒さんらが着用している甲冑には、大量の金属のデザインが取り付けられ、本当の純金属が施されいる為、重さ15kgだそうです。服裝造型費用に関して費やした資金は、300万! 俳優さんらは大変だけど視聴者にとってはいい目の肥やしになりますね。

今のところのストーリーでは”朱子学が栄える大明中期は、礼儀道徳が厳しく女性の地位は低いところに置かれ、貴族の女性は人前に顔をさらすことが許されない時代。たとえ病気であっても。人に言えない病気においては治療を受けるのは難しいものとなってしまい、また女性が医学に従事すると、たやすく世人に”三姑六婆”(言葉巧みによくない事をする女たち)だと取りざたされる。”そんな時代の中、祖母に倣って医術を学んでいる談允賢(劉詩詩)が老若男女分け隔てなく治療を施していくが・・・
祖父の冤罪の真相・朱祁鈺との恋の行方・朱祁鎮(英宗)のせつない片思い・さらに、朱祁鎮・朱祁鈺兄弟の確執皇位交代劇が繰り広げられてます。劇の舞台が宮廷・戦場・など色々変わって目の離せないおもしろさがあります。


ドラマが日本上陸します!

早くも衛星劇場にて、4月に日本初放送!
『女医明妃伝(原題)』(全50話)
4月11日(月)午後9:00~11:00(2話連続放送)
これはお目にかかれるのが楽しみですね♪



(衛星劇場.2016.3月現在)




さて、納蘭性徳さんの詩を見て以来、詩や句の言い回しが気になってまいりました。『女医 明妃傳』中で朱祁鈺(黄軒)が談允賢(劉詩詩)に求婚したワンシーンで使われていた一句がこちらです。

《 詩経 》

死生契闊,与子成説
執子之手,与子偕老

(死生(しせい)契闊(けいかつ)、与(交わす)子(なんじ)成説)
(子(なんじ)の手を執りて、子(なんじ)と偕(とも)に老いん)
 

【注釈】
◆周朝・『詩経』中の一篇、<国風·邶風·撃鼓>"擊鼓"の最後一句
◆子=相手・あなた
◆成説=誓約・契り・約束

【訳文】
生と死互いに寄り添って、私とあなたはかつて交わした誓いを思い返し
あなたの手をつなぎつつ、一緒に白頭に老いるまで
(参照:Baidu百科)
 
*原句は出征兵士が故郷にいる妻を想って詠んだ詩句。今でも諺として多く使われ永遠の愛情を形容している(言い表している)らしく、求婚時に誓いを立てるのに使われていたのでしょう。


さてさて、この詩句をどこかで見たなと思ってたら、郕王(朱祁鈺)役の黄軒(ホアン・シュアン)さんが別のドラマ『羋月傳』(2015年)で、黃歇(楚公子:春申君)役で幼馴染の羋月(楚威王の娘。(孫儷(スン・リー))に誓いを立てておりました。なかなか初々しかったです。


時代背景(備考)

時代背景は大明中期

談允賢(たん・ゆんしぃぇん,Tan Yunxian)

*《女醫雜言》の一部を書き上げ後世に広く伝える。
* 明朝天順五年(1461年)生まれ、祖父は談復、祖母は茹氏で当時の名医、伯父は談經:戶部主事、父親は談綱:南京刑部主事、談允賢は楊の姓に嫁いでまもなく氣血失調になるが、自分で治療し治す。1556年に病死し享年96歳である。

ドラマ『女医·明妃傳』は中国四大古代女医(漢朝:义妁、晉朝:鮑姑、宋朝:張小娘子、明朝:談允賢)に挙げられている一人、談允賢をモデルにした伝奇伝となっておりますが、談允賢(1461年-1556年)(父は談復)と杭氏(15世紀-1456年.後に杭皇后)(父は杭昱)は歴史上では別人で、ドラマでは同一人物に設定されてます。

朱祁鎮(しゅ・きちん,Zhu Qizhen)

正統帝 生年:宣徳2年11月11日(1427年11月29日)

明朝の第6,8代皇帝 (在位1435年―1449年,1457年―1464年)
廟号は英宗。年号により第6代を正統帝,第8代を天順帝と呼ぶ。
宣宗宣徳帝(朱瞻基)の長子。母 :孝恭章皇后孫氏。

宣徳10年(1435年)父帝の崩御後わずか9歳で皇帝に即位したので祖母の太皇太后(張太后)が摂政(垂簾)し,父・宣徳帝の遺臣である楊士奇・楊栄・楊溥(ようふ)<三楊>らの有能な官僚が補佐し安定した朝政であったが、太皇太后・遺臣らが死去したり隠退した後、正統帝・朱祁鎮の教育官であった宦官:王振の専横を許すことになった。王振(おうしん:司礼太監)は政治に対する理念に乏しく権勢と蓄財に邁進する性格であった。この王振の専横により朝政は弛緩し、内政では社会不安が高まって各地で鄧茂七<鄧茂七の乱>や葉宗留らの民乱が続発した。

正統14年(1449年)にモンゴルのオイラト部の部族長エセン=ハンは、明との通交を求めたが容れられなかったことを不満として、明領に侵攻を開始する。明の実権を握っていた宦官:王振の勧めでオイラト軍二万に対して正統帝は五十万の大軍を率いて親征したが、土木堡(どぼくほ:現在の河北懐来県東南)でモンゴル兵の奇襲を受け大敗し、明軍は死者数十万、王振は乱軍で殺され正統帝自身も捕虜となった。<土木の変>
中国皇帝史上でも珍しい、皇帝が野戦で捕虜になった事件として知られる。

明は正統帝の異母弟:朱祁鈺を景泰帝として即位させ、この事件を契機に明の対外政策は消極化の道を辿ることになった。英宗は翌年の和議で送還されるが南宮に軟禁(幽閉)され、1457年の<奪門の変>で復辟して天順と改元した。

朱祁鈺(しゅ・きぎょく,Zhu Qiyu)

景泰帝 生年:宣徳3年8月13日(1428年9月22日)

第7代皇帝(1449年 - 1457年)
明朝の第7代皇帝。
廟号は代宗。
宣宗宣徳帝の次子。 母:孝翼太后呉氏。
兄・正統帝(英宗)の即位後、郕王に封じられる。

土木の変で正統帝がオイラトに囚われると朝廷は大混乱し、北方の脅威を感じた群臣により副都である南京への遷都論が徐珵(徐有貞)などから沸き起こったが、兵部侍郎(軍事次官)の于謙(うけん)が、これに反対して北京の死守を主張した。さらに北京にて皇太后孫氏の命により朱祁鈺が、監国に次いで皇帝に即位し景泰帝となった。

翌年にはオイラートと講和し、正統帝は釈放され送還されたが弟の景泰帝により太上皇として奉じて幽閉した。景泰帝は于謙(兵部尚書)を中心に北防体制の建て直しや綱紀粛正を進める。

景泰3年(1452年)に景泰帝の子の朱見深(後の憲宗成化帝)を太子から廃して、実子の朱見済を皇統継承として立太子に画策した。この廃立を巡り反対派の朝臣を宥和するため金を下賜したことより、臣下に賄賂を贈る皇帝として非難された。このようにして立太子された朱見済は翌年に薨去し、景泰帝は後継者指名を行わずにいた。この状況に、正統帝に近い石亨、徐有貞、曹吉祥らは正統帝の復辟を画策し、正統帝を軟禁されている紫禁城南宮から脱出させ、病床の景泰帝は抵抗することなく正統帝(天順帝)が重祚した。
<奪門の変>
中国明代の皇帝らが眠る明十三陵には景泰帝の墓がない。
(引用:Wikipedia、goo)
 

正統帝が統治する世代に他人が皇帝であったことを許さなかったから[明十三陵]に入れなかったのね。

















【片头曲】 大雨将至 - 徐佳莹(Lala Hsu)
(上海尚世影业 SMG Pictures)

【片尾曲】 直到那一天 - 刘惜君(リウ・シージュン)
(上海尚世影业 SMG Pictures)

【插曲】 遗忘之前 - 徐佳莹(Lala Hsu)
( 东方放映室 )