今日の(狂)歌★廿五日目☆便々館湖鯉鮒
新宿区指定史跡
便々館湖鯉鮒歌碑(1西新宿・常圓寺)の
狂歌は
「三度たく こめさへこは(わ)し やわらかし おもうままには ならぬよの中」
そう昨年まで、オイラのプロフに貼り付けてあったヤツ
今は電気釜だから、ンな事はねぇだろうけどさ…昔はねヘッツイ(竈)で炊いたでしょ!
ヘッツイもわかんねぇし竈(かまど)も読めねなんてナシね
朝の飯炊き(江戸の庶民は主に飯炊きは朝、京阪は昼に炊く)でさえ硬かったり柔らかかったりするんだから世の中は自分の思うようにはならないのが常だよ!
ってな意味なんだけどね。
便々館が洒落てるでしょしかも神楽坂近くの新宿区袋町にある湖鯉鮒さん(旗本・大久保正武)の墓碑(2やはり新宿区指定史跡)には琵琶の絵柄がほら音色がベンベンだから。
筆を執った大田南畝先生の狂歌師名・四方赤良は江戸味噌「四方のあか」からきてるんだ洒落倒してるでしょ。江戸人は洒落好きなんだよな。最も洒落とは云わず地口ってんだけどね
この言葉あそびが実は後世の江戸落語に繋がるんだよ
おいらのメインハンネ「土師柿丸(はじのかきまる)」も「花おんち」のおいらが、ある時、椿を「薔薇だ!」とやって大恥をかいた時につけたんだよ。
それも浅草三社さまの祭神のお一人の名前をもじってね
そして我が心の師・四方赤良(蜀山人・大田南畝)先生(3)は文京区の同じく指定史跡となって菩提寺の白山本念寺に眠っている。
染井さんぽ/臨済宗勝林寺
実は巣鴨の本妙寺(旧本郷丸山=振袖火事の火元とされた寺で下総関宿藩主久世家を初め諸大名諸旗本各家から遠山の金さんや千葉周作墓もある)に荒木又右衛門の「鍵屋の辻の仇討ち」で河合又五郎を匿った旗本久世三四郎広当(7100石)と阿部四郎五郎正之(3000石)の墓碑を掃苔しようと田端から歩いて先ずは大久寺へ。その後幕末の仙台・伊達慶邦が最初に葬られた西福寺に。そして本妙寺へ来たのだが、途中で引っかかった次第
引っかかりついでに震災から5年、今の状況を見るため染井霊園の中を抜け勝林寺に寄った。
勝林寺は元和元年湯島天神に創建、開山は勅諡禅河弘済禅師、明暦の大火で本郷蓬莱町に移転、明和九年に焼失、中興開基の老中田沼意次により再建され昭和15年現在地(豊島区駒込7-14-14)に移った。
その田沼意次はひときわ大きい唐破風型墓碑に
「隆興院殿従四位侍従耆山良英大居士」
と刻む。ほかの墓碑はすべて改葬され嫡男山城守意知と歴代藩主の合祀墓と夫人子女の合祀墓が各一基ある。
田沼家の左斜め後ろには備中浅尾に幕末諸侯に復した蒔田家、墓地中ほどには江戸初期信州高島城主だった(子孫は高禄旗本に)日根野高吉と歴代の合祀墓がある。
日根野高吉は軍学・武具に長じ
「日根野錣」
の名を残し、また築城も得意で諏訪湖の水を引き入れた水城の高島城はその遺産である。
勝林寺を出てを見たら既に16時寸前久しぶりに行こうと思っていた本妙寺はパスして遅めの昼を食いに地蔵通り商店街の「更科」へ向かう。
染井さんぽ/泰宗寺・艶陽院殿
おそらくコレは普段目に出来ないもの
『艶陽院殿花光見栄大姉/元禄六年』
泰宗寺が下谷稲荷町時代(現在の上野消防署辺り)から当地に移転した際、当然の事ながら墓を掘り出した筈で、おそらく棺を入れた石室の石蓋と思われ、そこに略歴みたいな物を刻むのは普通に行われていたこと。
「夫人姓阿部氏諱於竹父武州忍城主従四位下侍従國老阿部豊後守正武母江州彦根城主従四位下少将藤原姓井伊氏掃部頭直澄之女以延寶六年二月十二日生干武江元禄四年二月十五日嫁於従四位下少将保科肥後守正容而未有子為元禄六年二月六日病終丁武江大田邸行年十有六也四月十一日葬干豊島郡下谷村法輪山泰宗寺」とある。
老中阿部豊後守正武の息女で会津松平家の三代正容(保科正之男・兄正経後嗣)の夫人として13歳で嫁ぎ16歳で亡くなった竹姫だと判る。
白河阿部家初期の墓所は池上本門寺にあったな、そういえば…。