【追記(2015年2月15日)】
太田資正時代の家臣について、改めて整理してみることにしました。
→ 太田資正の家臣団<インデックス>

以下は、2014年6月2日時点のエントリーです。
まだ手探りを始め、書きながら頭を整理している段階です。恥ずかしい間違いもたくさんしています・・・。

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図書館で借りた「岩槻市史 通史編」(1985年)から。
古文書、軍記物、家、墓誌などに見られる岩付太田氏の家臣の名前をまとめたものだそうです。同一人物の可能性のあるものも見受けられます。

 ※ 

資頼(資正の父)時代の家臣
・道祖土図書助
・渋江三郎
・高築次郎左衛門


最初は、岩付太田氏の事実上の始祖、資正の父・資頼の代の家臣から。

「道祖土図書助」は、比企郡を支配していた国衆(国人)。
岩付城(岩槻城)から離れた比企郡への支配を確立するため、岩付太田氏の当主は代々「道祖土図書助」との関係を重視したようです。

「渋江三郎」は、資頼が岩付城に入る前に、岩付を支配していた渋江氏でしょうか?
“岩付太田氏”と言いながらも、史料による限り、太田氏が最初に岩付を支配下に入れたのは、資正の父・資頼の代までしか遡れない(黒田基樹『岩付太田氏の系譜と動向』)とのこと。渋江氏と抗争を繰り返して岩付を手に入れた資頼の下に渋江氏の家臣がいたのは興味深いですね。渋江氏も大きな一族で、親太田氏、反太田氏に分かれていたのかもしれません。

「高築次郎左衛門」は、資正時代の家臣の「高梨三右衛門」の同族でしょうか。

《追記(2015年2月19日)》
「高『築』次郎左衛門」は、後の太田下野守の先祖。「高『梨』三右衛門」とは関係はありません。


資顕(資正の兄)時代の家臣
・上原出羽守
・細谷三河守
・宮城中務丞
・熊沢吉重

代々、扇谷上杉家の家宰を務めた太田氏の当主でありながら、上杉家を裏切り、北条氏についた資顕。なお、資顕の名前は、「資時」とも伝えられています。

「上原出羽守」の名は、弟・資正の家臣としても名前が確認されています。
資正が岩付城に入って以降も、資顕時代の北条寄りの家臣が残っていたと言いますが、「上原出羽守」はそうした一人でしょうか。あるいは、資顕の北条服属に面従腹背であり、資正の家督相続を歓迎した家臣だったのでしょうか?

(追記その1:上原出羽守は、資顕の北条服属の手引きをした家臣だったようです。書状が残っているとのこと。ならば、資正時代、特に反北条を明確にした時代はどう生きたのでしょうか。)

(追記その2(2014年9月26日"):上原出羽守は、資正の北条服属のきっかけとなった天文17年の岩付城攻防戦の時点で、太田家を捨てて北条方に付いたそうです。資正が反北条となるのはその13年後ですから、資正の反北条代の上原出羽守の去就はそもそも存在しない問題ということになるようです))

「熊沢吉重」も、資正時代の家臣の「熊沢吉勝」の父かもしれませんね。


資正の時代の家臣
・上原出羽守
・小池長門守
・道祖土図書助
・大島大炊助
・大島大膳亮
・内田兵部丞
・比企左馬助
・河目越前守資為
・河目四郎左衛門
・高麗豊後守
・太田下野守
・三戸駿河守
・三田五郎左衛門
・野本右近
・野本与次郎
・舎人孫四郎
・益戸助四郎
・佐枝信宗
・恒岡資宗
・牛村助十郎
・広沢尾張守忠信
・広沢兵庫介信秀
・松野助信
・春日下総守景定
・春日弥八郎
・春日摂津守
・春日家吉
・熊沢吉勝
・宮城政業
・会田出羽資清
・大石石見守
・小宮山弾左衛門
・小宮右衛門尉
・浅羽下総守
・本間小五郎
・埴谷図書助
・浜野修理亮
・河内越前守
・賀藤兵部少輔
・川口将監
・高崎刑部左衛門利春
・川崎赤次郎
・高梨三右衛門
・間宮隼人
・渋谷全久
・鶴岡三郎左衛門
・川崎又次郎
・黒川権右衛門
・村上
・高橋
・原島
・高谷

反北条の関東勢力の要として活躍した資正だけあって、家臣の情報も、先代・先々代や、息子の世代とは比べ物にならないほど残されています(主として名前のみではありますが)。

「太田下野守」は、資正の母を出した一族のようです。庶流でしょうか。

《追記(2015年2月19日)》
太田下野守については、その後もう少し調べものをして、事実とイメージを整理しました。
→太田資正の家臣たち 1.太田下野守


資正を岩付から追放した息子・氏資の家臣として名前が出てくる家臣も多いですね。
・「河目越前守資為」は、氏資時代の「河目越前守資好」の父でしょうか。
・「大島大炊助」、「春日摂津守」は、資正の家臣としても、氏資の家臣としても登場します。
・「広沢兵庫介信秀」は、氏資時代の「広沢尾張守信秀」と同一人物かもしれません。「広沢尾張守忠信」が信秀の父で、忠信存命の内は「兵庫介」を名乗り、死後は「尾張守」を受け継いだと見ることもできそうです。
・「恒岡資宗」は、氏資時代の「恒岡越前守」と同一人物か、父や兄かも知れません。

資正が息子・氏資に裏切られた際、家臣達も資正と氏資のどちらについていくか、難渋したはずです。そこには、さまざまな葛藤や抗争があったに違いありません。
確認できる家臣の名前からも、いろいろ想像を膨らませることができます。

なお、比企郡の「道祖土図書助」の名前は、資正の家臣としても名前が挙がっています。資正は、比企郡の松山城を支配下に入れたただ一人の岩付太田氏当主。道祖土図書助を押さえるのは、当たり前のことだったのでしょう。


氏資(資正の長男)の時代の家臣
・内山弥右衛門尉
・河目越前守資好
・大島大炊助
・宮城四郎兵衛尉
・春日摂津守
・道祖土図書助
・広沢尾張守信秀
・恒岡越前守
・深井景吉
・平柳蔵人

氏資の家臣のほとんどは、父・資正時代の家臣であることが分かります。
比企郡の「道祖土図書助」を押さえているところは、抜け目ないですね。


梶原政景(資正の次男)の家臣
・河目
・古尾谷隼人佐
・三戸十郎

梶原政景は、資正の次男。父・資正が岩付を追放された際、父と運命を共にし諸国を放浪します。
史料で確認できる政景の家臣は少ないのですが、面白いことも見えてきます。

「河目」は、氏資に従った「河目越前守資好」と同じ一族の者のようです。資正と氏資の決裂の中で、家臣側も一族が引き裂かれたことが伺われます。
「三戸十郎」は、父・資正の家臣「三戸駿河守」の子孫でしょうか。三戸氏は、資正の娘(政景から見れば姉か妹)の「としやう」が嫁いだ一族。氏資には従わず、資正・政景側に付いたようです。

「古尾谷隼人佐」は、比企郡の古尾谷荘の領主。
政景は、「道祖土図書助」を介して比企郡を押さえようとした氏資をけん制する意味合いも含めて、古尾谷氏と結んだのかもしれません。


資武(資正の三男)の家臣
・峰岸駒之助
・高橋鹿之助
・高谷伝内
・原島内記
・益戸勘解由左衛門
・高梨上野
・高梨筑後守
・吉岡図書
・石井助左衛門
・田村源十郎
・杉本左衛門五郎
・池田若狭
・井上太郎左衛門
・長島長右衛門
・平山玄蕃

資武は、資正が岩付を追放され、常陸国の佐竹氏の客将になってから生まれた三男。
岩付には一度も足を踏み込んだことはないも資武ですが、岩付太田氏に生まれた出自を誇りとし、江戸時代には書状の形で岩付太田氏の歴史を書き残した人物でもあります。岩付太田氏の歴史には、彼の書状(いわゆる“資武状”)によって明らかになったことも少なくありません。

家臣の名前も、がらっと変わった印象です。父・資正が、常陸国・片野に入って以降の新しい家臣を受け継いだのかもしれません。

資正家臣と同族かもしれない名前も少しあります。
「高梨上野」「高梨筑後守」は、資正家臣の「高梨三右衛門」と同族かもしれません。
「高谷伝内」は、資正家臣の「高谷」と同族でしょうか。
「原島内記」も、同様に、資正家臣の「原島」と同族かもしれません。

 ※

太田資正の生涯を追う時、こうした家臣達の動きも一緒に把握できるとより深みがでるはずですが・・・。働きに関する情報が少なくて、なかなか難しいですね。

【追記(2015年2月15日)】
太田資正時代の家臣について、改めて整理してみることにしました。
→ 太田資正の家臣団<インデックス>