太田資正の失敗 」と題したシリーズで、ようやく太田資正にとって運命の一戦である永禄五年末から翌六年二月にかけての武州松山城合戦を描く段に入りました。しかし、書き始めてみると筆が止まってしまいました。実は、この重要な合戦の顛末を、私自身がしっかり理解していないことに気づいたのです。

知ってるつもりで知ってない。
書き始めてみると、知識が血肉化しているかどうかが分かりますね。
そんな訳で、まずは、江戸期の各軍記物がこの合戦の顛末をどう描いているのかを下調べしてみました。

【参考:武州松山城の位置と地形図】
・松山城の位置(シンプル版)

武州松山城の位置


・松山城の位置(ごちゃごちゃ版)

武州松山城の位置


・松山城の地形

武州松山城の地形と縄張り



参照文献は、梅沢太久夫(2012年)『関東争奪戦史 松山城合戦 戦国合戦記の虚と実を探る』です。同書は永禄年間の松山城合戦に関する各軍記物の記述を丹念に整理している大労作。非常に参考になる書です。

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※ 今日の学説では、一次史料研究に基づき、北条・武田が松山城を攻めた松山城合戦は、永禄五年十一月~永禄六年二月だったとされています。不思議なことに、軍記物の年次情報は、みなこれと食い違っています。なぜなんでしょうね。


■『北条記』
小田原北条氏視点の軍記物十七世紀後半の成立

・松山城が攻められれば、越後上杉と安房里見が後詰めをする約束があった。
・小田原(北条氏)が松山城を攻めたのは、永禄四年十一月十一日。
・松山城は要害堅固。  兵糧・水も豊富。
・籠城衆は、上野国の名だたる兵。
・小田原も一騎当千の者が攻めた。
・北条左衛門大夫(北条綱成)が、惣曲輪を攻め破り、外曲輪を焼く。
・籠城衆は怯まず城を守る。
・武田信玄が参陣。
・小田原(北条氏)はこれに力を得て一気に城を攻略しようとするが、落とすことができない。
・そこで攻め方を変えた。
 ①金堀衆に城に向かって坑道を掘らせた。しかし、籠城衆に鉄砲で撃たれて全滅。
 ②「竹束」を盾に攻め寄せた。成功し、櫓を2つ奪った。
・籠城衆は竹束を使う攻め手の攻撃を防ぎきれないと判断し、越後・安房に後詰を要請。
・小田原勢は、後詰めが来る前に城を落とそうと攻勢を強める。
・城内が困窮し始めたのを見て、永禄五年三月三日に武田家臣の飯富源四郎が調略を実施。
・籠城していた上杉憲勝は、調略に応じて城を明け渡した。


■『甲陽軍鑑』
甲斐武田氏視点の軍記物江戸時代初期に成立

・永禄五年正月に、北条氏康・氏政親子が、信玄公に松山城への援軍を要請。
・北条親子曰く、太田三楽の後詰めは大したことはないが、越後が後詰めに来るとなると苦しい。
・永禄五年三月、武田・北条は、総勢五万五千の軍勢で松山城を攻撃。
・武田の先駆け甘利左衛門慰は、初めから城近くに寄り付き、城内と交戦。
・信濃の城攻めで有効だった「竹束」を松山城攻撃にも使用。
・この竹束を使った攻撃で、松山城は落ちた。
・竹束を使った攻撃の他に、水の手を絶つ策も取ったが、これは城内から鉄砲で撃たれ失敗。
・合戦の中で、甘利左衛門慰の同心・米倉丹後守惣領子彦次郎が、腹を鉄砲で撃たれる。馬糞を水に溶いたものを飲めば助かった。(本人は武士の恥と嫌がったが、甘利左衛門慰が説得して飲ませた)


■『上杉家御年譜』
上杉家の史料を編集した文書/
謙信の巻は元禄九年(1688年)に成立

・永禄五年三月、太田三楽斎の息子・梶原政景が、謙信に注進。
 -御下知により松山城を攻略した。
 -しかし北条は、武田に後詰めを頼んで松山城を奪還しようとしている
・謙信は、これを受けて出陣。
・永禄五年三月二十三日、北条氏康・氏政親子は、三万五千騎で松山城を攻撃。
・城を幾重にも囲み、兵を入れ替えながら攻めたが、籠城する上杉憲勝も果敢に応戦。小田原勢は多くの死者を出した。
・松山城は、尾根を掘り切って切岸はまるで壁塀のよう、四方は深田で、大軍が動かしにくい。
・兵糧は十分、水の便もよく、三楽斎が、選び抜いた強兵が籠っているので、そう簡単には落ちない。
・攻め手側は苦戦し、毎日戦死者を出した。
・攻め手の北条左衛門大夫(北条綱成)は、武勇に長けた猛将で、松山城の外郭を焼き払ったが、城は少しも弱った様子が無い。
・攻めあぐねた北条側は信玄に後詰めを頼み、信玄は三月六日に松山城に到着した。
・北条・武田は都合五万五千余騎で松山城を包囲する。
・先人の五千余騎は、引き付けたところを城内から矢と鉄砲で撃たれて二百七十余人が即死。
・玉薬を入れ換えた第二の攻撃でさらに四百四十人が射殺された。
・氏康は、金堀衆に城を崩させることを命じたが、松山城は掘り入られた場合の水攻めの用意があったため、金堀衆の多くを失うことになった。
・「竹束」を使って城に押し寄せたところ、矢と鉄砲を弾くことができた。
・竹束の外に出て攻めた者は籠城衆に撃ち殺された。
・しかし、攻め手が多勢であるため、兵力が少なくなったようには見えず、城内も玉薬を撃ち尽くした。
・武田家の山形三郎兵衛が、籠城衆を調略して、松山城は落城した。


■『関八州古戦録』
中立視点?の軍記物/成立は享保十一年(1726年)

・永禄四年十二月、北条氏政、氏照、綱成が三万余騎を率いて松山城を包囲。
・太田三楽斎は、「犬の入替え」で松山城の危機を知るも、相手が大軍であるため、出陣できなかった。
・太田三楽斎は、房州里見に援軍を求めたが、里見義弘は三崎に出陣中。越後の謙信にも援軍を求めたが、雪が深く、謙信の進軍は滞った。
・しかし、松山城の上杉憲勝は奮戦し、北条氏は奪った虎口から退却した。
・永禄五年正月七日、北条氏政は、武田信玄に援軍を要請。
・永禄五年正月二十八日、武田信玄は、息子・義信とともに二万五千余騎を率いて松山城に着陣した。
・北条・武田は、合計五万六千騎で、松山城を包囲し、攻撃。
・寄せ手の先陣五千余騎が攻めかかったが、城兵は鉄砲二百挺で迎撃。寄せ手は百六十人が将棋倒しに撃ち倒された。
・城兵は玉薬を入れ替えながら隙間なく撃ち続け、北条・武田の四百余人が討たれた。
・北条・武田は評定を行い、北条の発案で金堀衆を集めて松山城の櫓を崩させることにした。
・金堀衆により、松山城の櫓は掘り崩されたが、城兵は用水のために掘っておいた渠の大甕を崩して金堀衆を溺死させた。
・北条・武田は再び評定を行い、次に信州筑摩郡刈谷原攻めで遊行だった「竹束」を使って攻めることにした。
・竹束で鉄砲の弾は避けられたものの、竹束から出て城を攻めた武田衆は鉄砲を連射され、六十余人が撃ち取られた。
・この時、米倉丹後守の長男彦次郎が腹を撃ち抜かれたが、馬糞を水に溶いて飲み、助かった。
・信玄は大久の将兵を失って激怒し、いっそう激しく城を攻め、松山城の水の手を奪った。
・水の手を失い、城兵は苦しむことになった。
・しかし一方、里見義弘は三浦表から引き上げ、上杉謙信も越後府中を出立したとの方が、北条・武田陣中に届く。
・上杉・里見両家が出張ってきては、松山城を落とすことはできないため、武田家臣・飯富三郎兵衛昌景が、調略を進言した。
・北条・武田は、雄弁で知られる武蔵国住人勝式部少輔を松山城に使わし、上杉憲勝を説得。
・三月四日、上杉憲勝は降服を決断。
・あと、二三日持ちこたえれば、城を敵に渡さず、その誉れを後世まで伝えられたのに、残念なことだ。

※ ※ ※

四つの軍記物から、共通点を抽出してみると、

1.初めは北条勢三万余騎で松山城を攻撃。
  外曲輪を焼くも、籠城衆に影響は無く、頑強な抵抗が続く。
 ↓
2.北条氏は甲斐武田氏に援軍を要請。武田は二万余騎を率いて参陣。
 ↓
3.北条・武田連合は合計五万騎強で、松山城を包囲。
  しかし、城に攻め寄せた先陣は、城内から鉄砲と弓矢で撃たれ、大損害を被る。  
 ↓
4.北条・武田は、金堀衆に城を掘り崩させる策を取ったが、
  籠城衆は水攻めで対抗し、金堀衆を撃退。
 ↓
5.北条・武田は、竹束で鉄砲と矢を避けながら城を攻めることに。
  竹束から出た者が撃ち取られるミスはあったが、次第に籠城衆を追い詰める。
 ↓
6.籠城衆は水の手を失い、困窮。
  そこへ北条・武田が調略を仕掛け、城将・上杉憲勝に降服を決意させた。

※ ※ ※

堅城・松山城の籠城衆が、鉄砲・弓矢を有効に使い、北条・武田の大軍を苦しめたことは、事実と見て良さそうです。
ちなみに、梅沢太久夫氏によれば、関東において合戦で鉄砲が使われたのは永禄三年が最初だとのこと。この永禄五年末の松山城合戦の鉄砲大活躍は、関東の鉄砲有効活用の初期の好事例と見ることができそうです。

最新技術を意欲的に導入・活用した太田資正の智が光ります。
案外資正としては、松山城をエサに北条・武田の本隊を誘き寄せ、罠にはめる、という考えもあったのかもしれません。敵を松山城に集め、そこに上杉謙信・里見義弘をぶつけて大打撃を与える、という策として。

【妄想:資正は松山城をエサに北条・武田を罠に嵌めたのか?】

松山城はエサだったのか


しかし、最新技術・鉄砲の猛威は、それを防ぐ最新技術である「竹束」によって無力化されてしまいます。
最新技術が、量の差を逆転したのが松山城合戦の前半戦だとすると、最新技術を無力化されて量の差が即ち力の差となる状況に押し戻されたのが、松山城合戦の後半戦と言えるかもしれません。  

このまとめをしながら、ふと、現代日本の海防を思いました。
我が国の海上自衛隊は、潜水艦の探索力と海路に仕込んだ機雷によって、仮に中国海軍が強硬な策に出ようともそれを封じることができる。以前どこかで、そんな記事を読みました。(軍事オンチなので、うろ覚えです)

技術力と錬度の差で相手を完封するとの見込みは、それに対抗する新技術によって根底から崩される可能性もあります。
最新兵器「鉄砲」を松山城に仕込むことで、北条・武田の大軍の攻勢を防げると考えた太田資正は、「竹束」という対抗技術の登場をみこんでいませんでした。

同じ過ちを、今日の日本は繰り返してはいけないと思います。

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