軍記物が描く松山城合戦」に続く松山城合戦下調べの第二弾。
一次史料研究の成果をまとめた黒田基樹の『戦国関東の覇権戦争』から上杉謙信の動きを追います。

戦国関東の覇権戦争 (歴史新書y)/洋泉社
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●永禄五年十月
・北条氏康・氏政親子、武州松山城を攻撃。

●永禄五年十一月上旬
・武田信玄も西上野に進軍。北条氏と合流し、松山城を攻める。

●永禄五年十一年下旬
・上杉謙信、越後を出陣。

●永禄五年十二月中旬
・上杉謙信、上野に着陣。関東の国衆に参陣を求める。
 -参陣の意向を示したのは、下総関宿の梁田氏、房総里見氏、下野宇都宮氏、常陸佐竹氏ら
  (その他の元味方衆は、謙信の要請を無視)
 -謙信は、彼らに岩付城(岩槻城)で合流してから松山城の後詰めにかかる作戦を立てる

●永禄六年正月上旬
・上杉謙信、利根川対岸の深谷領を攻撃。
・その後烏川を越えて西上野の高山・小幡を攻撃(松山城の武田勢と甲斐・信濃の連絡を絶つ目的)。

●永禄六年正月下旬
・上杉謙信、館林に着陣。
・里見らに進軍を促しつつ、利根川を越える。
・里見義弘、臼井(佐倉市)に着陣。

●永禄六年二月
・一日、里見義弘、市川(市川市)まで進軍。
・四日、松山城落城。
・数日後、上杉謙信、岩付領の石戸城に入る。
・武田信玄、西上野から退却。
・十一日、上杉謙信、岩付城(岩槻城)に移動。
・上杉謙信、松山城を攻めるが北条氏康・氏政が出城せず、合戦の形にならない。
・十七日、上杉謙信、北条方の騎西城を落とす。

●永禄六年三月
・上杉謙信、常陸佐竹氏と下野宇都宮氏と合流し、北条方の小山城を攻める。小山秀綱降服。
・上杉謙信、結城城を攻めようとするが、小山秀綱の要望を受け、扱いを秀綱に委ねる。

●永禄六年四月
・上杉謙信、下野佐野氏を攻める。佐野昌綱は降服を申し出る。
 (ただし降服交渉がまとまらない)
・上野桐生の佐野直綱も上杉謙信に従属。
 (同時期に、忍成田氏、藤岡茂呂氏も、謙信に再服属)
・十日、上杉謙信、越後に帰国。

●永禄六年五月?
・北条氏の同盟相手・芦名盛氏(南陸奥)は、「氏康頼もしからず」の評が陸奥にも伝わっていると、北条氏康に苦言。

※ ※ ※

松山城合戦は、
・大軍で松山城を攻める北条・武田
・手も足も出ない岩付太田
・間に合わなかった上杉謙信
という構図で整理されます。

上杉謙信が間に合わなかった理由として、よくこの年の豪雪が挙げられますが、実際には謙信は十二月には関東(上野国)に入っていたようです。上野国から武蔵国への進軍が雪で遅れるのは考えにくいことを考えると、雪を理由に遅れたとする見方は、一面的過ぎる恐れがあります。

むしろ謙信が遅れたのは、
①武田の退路を断ち、
②北関東の味方衆を動員して、
北条・武田の大軍と対決する準備を入念に行ったため、
と見た方が良いのではないでしょうか。

こうした謙信の動きにの背景には、十分に備えを用意した松山城はそう簡単には落ちない、という認識があったのかもしれません。

北条記』は、上杉・里見の間には、武州松山城が攻められたら両軍とも後詰めを行う、とする約束があったとしています。
北条・武田が松山城に総攻撃をかけた時こそ決戦の時、と謙信と味方衆は最初から申し合わせていたのかもしれません。

想像を膨らませれば、
「謙信側は、松山城をエサに北条・武田を誘き寄せて一気に叩く、という大戦略の下に動いていた」
という仮説も成り立つかもしれませんね。

松山城落城の後、謙信は北条勢が合戦に応じないことから、北条氏に寝返った北関東の元味方衆に矛先を向け、彼らを狂ったように攻め立て、再服属させています。 北条・武田を一気に叩くあてが外れたことに対する憤慨が、その原動力だったのかもしれませn。

謙信のこの怒濤の反撃によって、北条氏は一時評判を大いに落とします。北条氏と同盟していた蘆名盛氏からの「氏康頼もしからず」の指摘が、それを示しています。しかし、重要拠点・松山城を押さえた地の利は、そんな評判をすぐに覆します。

要所・松山城を奪った北条氏は、謙信の片腕であり、先兵である岩付(岩槻)の太田資正を、容赦なく追い詰めていきます。
松山城を失った太田資正が、「断じて無力」と評されるのは、謙信帰国後すぐのことでした。

松山城はエサだったのか