お山の樂校の始業時間は8時40分です。
が、最寄り駅から歩いて登校する人たちが、40分過ぎても来ない。
9時過ぎても来ない。
遅いなぁ〜と思いながら来る道を見ていたら、お山の登り坂の下の方から3人分の頭のてっぺんが見えてきました。
“やっと来たぁ、遅れてるよー!”って言ってやる〜っと思ってたんだけども…
子どもたちの方から先に大きな声で
「タケノコ採ったぁ〜〜」っと。
自分の身長の倍以上の長さのタケノコを両肩にかけて赤い顔していっぱいの汗かいて、満足感いっぱいの様子。
その後から来た人たちは、
「ヘビが川で死んどったっ、あそこのあの橋のさ、その川あるやんっ。…………」と、時間お構いないの報告話。
おとなとしてはね、「40分から始めたい」「40分って決めてるんだからそれまでには来られるようになってほしいな」と思ってるんです。
決めた時間を守れないとおとなになってからなんたらかんたら〜なんてことが浮かばないこともないんです。
だけど、遅れた時間の中にあるものを想像すると、そんなあれこれは言いたくなくなってしいます。
ある時には9時半過ぎても来ない男の子二人がいて、理由を聞くと、捕まえたニホントカゲに逃げられて大捜索してたとか。
「お山は40分からよね?なのに今日は一時間近く過ぎてるんよ。」って言った瞬間、「え〜っ、俺たちそんな長い時間取りよったんやぁーっ」って驚きと嬉しさい〜っぱいの顔。
う…うん、確かにそう…
と思ったりもして。
40分には登校する。
時間は守る。
それを“出来るようにする”方法はあると思います。
守れなかったら徹底して注意する、怒る。
守れたらご褒美になるものをもらえる。
おとなが見守りする。
とかとか。
そうなった時、それを守るために子どもたちが前だけ見てすたすた歩いて来てくれるようになったとしたら…。
私は、なんだか味わいがない…と感じてしまいます。
タケノコを折りたい!剥きたい!お山まで持って行きたい!
トカゲ見つけた!逃げた!あっちにいるはず!いない!こっちかも!
おとなからしたら、そんなこと今やらなくても…って思うかもしれません。
確かに今やらなくてもいいんだけど、
今!自分の心が反応した今!
に行動することで、心をめいっぱい動かして、いろんなことを感じているんだと思います。
喜び、驚き、悔しさ、辛さ、面白さ…
私たちおとなは、この心動かして何かを感じることを非日常な時間の中に求めます。
旅に行く、スポーツする、スポーツ観戦で熱狂する、予定を決めておでかけする、欲しかったものを手に入れる……。
特別な時間の中で心が動いた時、
嬉しい〜とか、
美味しい〜とか、
氣持ちいい〜とか、
やったーっとか、
そんな感覚を感じられた時、充実感や満足感や幸せを感じる。
心が動いて感動する瞬間がある非日常。
そんな非日常を楽しみにして、日常を過ごす。
なんなら非日常だけが楽しみで、日常は我慢の時間を過ごしているおとなもいる。
だけど子どもたちは、おとなが非日常でしか得られなくなっているものを毎瞬毎瞬得ることが出来る力を持っています。
子どもが持っているその力を忘れてしまっているおとなには、子どものその素晴らしい能力が見えなくなって、「そんなんじゃダメだよ!」「そんな無駄なことして〜」って氣もちが沸いてしまうんじゃないかって氣がします。
それはすごくもったいない。
だって本当はおとながその力を取り戻るチャンスをもらってるのにー。
と私は思います。
なんでそんなくだらないことに…って氣持ちが沸いて来た時こそ、子どもと同じ方向から世界を見てみます。
そうすると、おとなの私も心動かすものに反応するスイッチの敏感度が上がってくるんです。
いつもと変わらない日常の中にも非日常の感動が味わえる私は、日々しあわせものです。