みなさま

こにゃにゃちは

 

お寒うございます

 

 

 

昨日の夜

たまたま

 

 

本当にたまたま

久しぶりに

 

阿部敏郎さんのブログを開いたら

一瞥体験を書いてくれてました

 

 

 

 

阿部さんは

本当に文章うまいなぁって思います拍手

ぜひブログ読んでみてくださいね爆笑

 

 

 

 

 

基本は

大丈夫だよってことを

いつも

お伝えされてる気がします

 

 

 

せっかくなので

以下

引用にて

ご紹介させていただきますね

 

 

 

ここから

 

一瞥体験

 
あの瞬間は忘れようがない。

一切の重荷から解放されて、自己が宇宙大に広がったあの瞬間だ。


解放された重荷は、それまで担いでいたことさえ忘れていたものだった。

あの瞬間に初めて、いままでどんなに重い鎖に縛られていたのかが解った。


肉体も消えていた。

いまから思えば重たい身体を引きずるようにして持ち運び、空腹やら性欲やら休息やら、絶え間ない欲求に四苦八苦しながら、よく頑張っていたものだ。


もう二度とあの身体には戻りたくない。

この無重力の解放感にいつまでも浸っていたいと思った。


解放感だけじゃない。

人生では決して味わうことのない、目くるめく快感と、あらゆる種類の喜びが無尽蔵に湧いてくる。

肉体と精神から解放されるというのは、これほどまでに甘美な経験なのか。


しかもこれが、あらゆる人間の実相だったとは驚きだ。

人は皆、誰一人例外なく魂の奥底にこの歓喜を携えていたのか。


さながら人生の苦悩は、この歓喜をより深くするために溜めこんだ蒸気圧のようなものだ。


すべては上手くいっている。

そしてあらゆる存在は、最初の最初から救われていた。

この体験を神と呼ぶのだろう。



これが一瞥と言われる体験です。

一瞥という言葉が表すように、それは一瞬の出来事であり、気がつくとまたもとの状態に戻っています。


したがって一瞥体験は無意味だと言う人がいますが、それは体験を知らない人か、ある種の気づきを一瞥と勘違いしている人の言葉です。


一瞬でも真実の次元を垣間見れば、もう二度と同じ人ではありません。

真実を覆っていた鉄のカーテンがいったん開くと、

それはフカフカに柔らかくなり、

たとえまた真実を覆ってしまったとしても、

その向こうが透けて見えるようになるからです。


実は、一瞥も恒常的な悟りも同じものなのです。

時間という錯覚の中からは別物に見えるだけの話です。

 

さて、本当に一瞥したかどうかを確かめる基準があります。


人生からあらゆる苦悩や、イヤな感情が無くなる。

そんなことは起きません。


ストーリーが完全に消えて、いまここだけを生きだす。

そんなことは起きません。


無欲になって人への施しだけを生きるようになる。

そんなことは起きません。



それでは一瞥を確かめる基準とは何なのか。


それは、

真理への探究が終わるということです。

これだけは完全に終わります。



今日の最後に、一瞥後に起こりがちな過ちを紹介しておきましょう。


それは先ほど紹介した甘美な体験が、一瞥した高次元の感覚だと思いこみ、もう一度同じ体験を追い求めることです。


あの甘美な感覚は、一瞥の副産物のようなものであり、それ自体が重要なのではありません。

ここはしっかりと整理しておかなければなりません。


そして元の状態に戻った後は、あの次元が失われてしまったような気がしますが、一度でも垣間見れば、すでにあなたの一部として定着しています。


だから、あいかわらずストーリーに巻き込まれても、巻き込まれていることを知っているし、

情けない行為や、尊敬できない思いが湧いてきても、自分を卑下することがなくなるし、

何が起きていても心の底には絶対の安心感が流れているはずです。




今日は一瞥について書いてみました。

このブログを読んだり瞑想や講演に参加したりするうちに一瞥したという人の報告は、数十にものぼります。

その中には、一瞥体験の後、講演や書籍で活躍している人たちもいます。


このような現象は、今後ますます広がっていくと予感しています。



そして最後に伝えておきます。


一瞥は誰にでも起きることではないかもしれません。

タイプによっては一瞥がなくとも、徐々に真理の次元が開かれていく人もいるようです。


だから焦ったり、体験自体を恋い焦がれたりしないでください。


起きれば起きる


起きなければ起きない


どちらにせよ、あなた自身が真理であることに変わりはないのだから。



・・・・・・・・・

 

引用ここまで

 

 

起きれば起きるってね

それしかないですから

 

 

おいらも昔は

阿部さんの話を聞いて

いいなぁ

そういう体験したいなぁって思ってた人ですから

 

 

 

 

阿部敏郎さんの書かれてる

「探究の終わり」ってのは

 

 

「あなたの世界の終わり」の著者

アジャシャンティさんが書いてる言葉を借りれば

 

探究者が仮想の現実だったってわかるんです

それはずっとそうだったって

 

 

つまりね

 

「個」としての自分はいなかったってわかるんですよ

 

「個」の私は消えるけど

 

もともと私は全体だった

(私という感覚ではないけど)

 

すべてだったってわかります

わかる「私」っていうのはいないんだけどね

 

 

 

だから

自我の「個の私」に戻ってきても

本当はいないみたいな事がわかってるんです

 

 

だから

ラーマクリシュナさんは

「個人としてのあなたは、行為者ではない」が、

しかし人生では、自分がまるで

行為者であるかのように機能しなければならない

 

って言ってくれてるし

この方ね

 

 

 

ラメッシ バルセカールさんは

自分とは、

その行為者ではないことを知的に理解しながら、

まるで自分が、

行為者であるかのように機能し続けてください

 

って言ってくれてるんです

 

この方

 

 

 

 

きっと最初は

わけがわからないか

そんなのつまんないって思いますよ

 

 

 

普通は

 

自分には自由意志はなく、

「自分は、人間の知性とは全く比較できない

秩序の知性に操作されている単なる操り人形にすぎない」

と教えられることは誰も好まない

 

 

「未来は自分の手中にあり、

自分が望むように未来を作ることができる」

と、教えられるのが好きで、そう信じたいのです

 

 

 

いいんですよ

 

べつにね

人間やってる感覚で

 

 

「私の未来は私が切り拓く」

とか

 

 

「好きな未来は創造できる」

とか

 

 

それはそれでありですからね

 

 

 

 

ただね

順序だてて理解すると

とても楽ちんになります

 

 

 

その順序だてては

書くのがめんどくさいので

また今度(笑)爆笑

 

 

 

2/1の講座ではお話できると思います

お楽しみにね

 

講座は

もう満席だけどって

書こうとしたら

おひとりキャンセルが出たそうなので

あとおひとり様は参加できるそうです

 

 

よかったらどうぞ

講座の詳細はこちらです

 

 

 

 

 

 

 

きてね