こんばんはです|д・)チラッ
長いです。
特別編最終話です。
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元カレ×元カノ
その日は朝からどんよりと厚い雲が空を覆い、梅雨らしい湿った空気が頬を撫でた。
そんな重量級の雲を一身に背負ったかのようになんだか身体が重い。
出社するなり社さんに「風邪でもひいたか」と尋ねられたが、速攻で否定した。
朝起きたらほんの少しだけ喉がイガイガして、時折ゾクッと身震いするだけだ。
今日はキョーコと食事に行くと約束した日だ。
店はもう決めてある。
高級な店をあまり好まない彼女が、とても喜んだ大好きな目玉焼きの乗ったハンバーグが美味しい洋食屋。
一年ぶりに二人で過ごす夜。
今夜はアルコールは控えめにして、彼女とゆっくり話したい。
気分転換に一服しようと、禁煙ブースに向かう途中、聞き覚えのある柔らかな声が聞こえた。
吸い寄せられるように給湯室へと足を向けた先にいたのは、やはりキョーコだった。
喜々として少しふらつく足を速めて給湯室へと意識を向けた。
だが、彼女は一人じゃなかった。
「…それで、丸の内にハンバーグの美味しいお店があって…」
「いいですね!私、ハンバーグにはちょっとうるさいんですよ」
聞こえてきたのは同僚の貴島の声。
そして貴島の誘い文句に楽しそうに受け応える彼女の声。
「それじゃあキョーコちゃん、今度…」
何も聞きたくなくて、一気に重くなった体を引き摺ってその場を離れた。
☆
あの後、喫煙ブースに入るなり咳込んだ俺を見かねた社さんに強制的に医務室へと連行され、正真正銘の『風邪』との診断を受けた俺は、早退を余儀なくされてしまった。
「今日は大事な約束が…」
「ん?今日は何処ともアポを取ってなかっただろう?とにかく早く帰って寝ろ!そして早急に回復しろ!」
社さんからの厳命を受け、自宅マンションに戻った。
ベッドに辿り着くなり、急に視界が揺れる。
気を抜いた途端、一気に症状が悪化したようだ。
どうやらこれが風邪らしい。
決して認めたくはなかったが、腹を括るしかない。
とにかくキョーコへ約束を反故にしてしまった謝罪と後日改めての約束を取り付けようと、スマートフォンを手に取ったところで、俺の意識は勝手に途切れた。
☆☆
夢を見た。
ああ、そういえばあの日もこんな風にどんよりと重い雲が空を覆っていたっけ。
来週に迫った旅行の計画を立てながら部屋でゆっくりと過ごすはずが、ついつい盛り上がってしまった。
彼女の白くてまろやかな肌を全身で堪能して、甘い啼き声に酔いしれた濃密な時間。
満足感と幸福感に浸りながらシャワーを浴びて寝室に戻ると、彼女の姿はどこにもなかった。
何度も電話をしてもメールを送っても、彼女が応えることはなかった。
数日が過ぎて遂に電話すら繋がらなくなったとき、 彼女の中で俺は終わった恋の相手だったのだと結論付けた。
そう気づいて思い返してみれば、彼女は俺の部屋に私物を置くことに消極的だった。
着替えも化粧品も、歯ブラシでさえ、俺の部屋に留め置くことはせずに毎回少し大きめのカバンに詰め込んで持ち帰っていた。
どこかで感じていた距離感はここにあったのか…と今更ながら腑に落ちた気がした。
最初から彼女は俺と別れることを想定していたかもしれない。
本当は急に姿を消した理由を聞きたかった。
どうして急にいなくなったんだって、文句のひとつも言いたかった。
でもそんなのはもうどうだっていい。
その焦燥感は、一年ぶりに抱いた腕の中の彼女の温もりと甘い香りに一層高まった。
キョーコが傍で笑っていてくれるなら、俺は…
遠くから聞こえる呼び出し音に、意識が少しずつ浮上していく。
重い瞼をゆっくりと開けると、眠る前よりも大分暗くなっ内を見渡し時間の経過を知った。
薬のせいか深い眠りに落ちていたようで、びっしょりと寝汗を掻いていた。
張り付くシャツが気持ち悪いが、先ほどからしつこく鳴り続けるインターフォンに危機感を感じて先にモニターを応答にした。
「はい」
『あ、あの…突然すみません』
聞こえてきた思いがけない声に驚いて、モニターを食い入るように凝視した。
「キョーコ…っ!」
☆
「あの…すみません突然押しかけて…」
「いや…」
玄関先で立ち尽くす俺たち。
ぎこちない沈黙。
「敦賀さん?なんだかシャツが濡れてませんか?」
「あぁ、さっきまで寝てたから…」
「そんな恰好でいたら熱がぶり返してしまいますよ!!早く着替えて!!」
彼女は急に般若のように怒った様子で両手に抱えていた大量の荷物を放り投げると、俺のシャツを剥がしにかかってきた。
「ちょっ、ちょっとキョーコっ、落ち着いてっ」
慌てる俺を無視して服を脱がされた俺はバスルームへと押し込まれ、彼女に言われるままにシャワーを浴びることになった。
☆
ぐっすり寝たせいか熱も下がり、随分と身体も軽くなっていた。
汗を流してスッキリした足取りでリビングに入ると、ダイニングテーブルの椅子に腰かけたまま申し訳なさそうに俯く彼女の姿があった。
いつもここで食事をするときの彼女の定位置。
そこに自然と座っている彼女愛おしくてたまらなくなった。
向かい合う俺のいつもの席にスポーツドリンクを淹れたグラスを置いてくれている。
「社さんから敦賀さんが高熱で倒れたって聞いて…。それであのっ、きっと敦賀さんのお部屋の冷蔵庫には栄養になりそうなモノなんて何も入ってないだろうって話になって、それで…」
「心配して来てくれたんだ?」
「す、すみませんっ勝手に…」
「まさか、嬉しいよ」
「…っ!!」
赤面して俯いた彼女の旋毛を見つめながら、今日の約束を破ってしまったことを謝った。
「いえ…気になさらないでください」
「貴島君と行くから…?」
「え…?」
俺の謝罪の言葉を、受けとってくれない彼女に少しだけイラついた。
体調がまだ回復しきっていないせいかそれともさっきの夢を引き摺っているのか、理性的に話すことが難しい。
「ごめん、やきもちだった…」
「やきもちって…まさか、敦賀さんが?」
あまりにも意外そうな彼女の顔についムキになってしまう。
「俺だってやきもちくらい妬くよ。好きな子が他の男と仲良くしていたら」
「え…えぇ…?」
「キョーコはもう俺のことなんてどうとも思っていないかもしれないけれど、俺はっ…」
「ちょ…ちょっと待ってくださいっ」
つい興奮して口走った言葉を慌てた様子でキョーコが遮った。
「あの、なんでそこで貴島さんの名前が?そもそも、敦賀さんこそ私の事なんて…」
「なんとも思ってない訳ないじゃないかっ。一年ぶりに再会した君が酔っているとわかっていながら抱いてしまうくらいには、未練がましく君を想っているよ」
直接的な言葉に赤面する彼女を前に、堰を切ったように言葉が止まらない。
「あの日、何で急にいなくなったの?俺の何が悪かった?なんで!?キョーコ…俺は…」
「敦賀さんっ!」
熱い…頭がぐらぐらする…。
薄れていく意識の中で、俺は俺は何度もキョーコの名前を呼んだ。
☆
頬に触れる冷たい感触は心地よくて目が覚めた。
少しぼやけた視界に入ってきたのはキョーコの心配そうな顔で、ああ俺はまた彼女にそんな表情をさせたのかと自己嫌悪した。
「敦賀さん、気が付きました?」
「俺…」
「お話しの途中で倒れたんですよ。すみません、本調子でもないのにシャワーなんて浴びさせたりして…」
辺りを見回してここがリビングで、俺はソファーに横たわっているらしいことを理解した。
倒れた俺を運べなかったキョーコが、なんとかここに寝かせてくれたらしい。
「ごめん…重かっただろう?」
「具合はどうですか?」
緩く首を左右に振って、彼女が訊ねる。
「大丈夫」
キョーコは安心したように息を吐いた。
「あの…今更ですけど、黙っていなくなってごめんなさい」
「……なにがあったのか、教えてくれる?」
彼女を怖がらせないように、努めて落ち着いた声を出して問う。
なかなか言い出そうとしない彼女を促すように、彼女の膝に置かれた白くて華奢な手に自分のそれを重ねた。
「…敦賀さんは、格好よくて大人で落ち着いていて…なんで地味で色気のない私なんかとお付き合いしてくださっているのか、ずっとわからなくて…」
「なっ!?」
「それでも敦賀さんのことが好きだから、傍にいられるだけで嬉しかったんです。でも…」
思いがけない方向からの返答に思わず声を失った。
そんな俺の様子に気づかないキョーコは話し続けた。
「敦賀さんはご存知ないかもしれませんが、会社に敦賀さんがみえると女子社員の皆さんの様子が一変するんですっ」
「え?」
「カッコいいとか、色気がハンパないとか、お付き合いしたいとか…一度でいいから遊ばれてみたいとかっ」
「!?」
「そういう話を聞く度にすっごく腹が立って…。自分が自分じゃなくなっちゃうんじゃないかと思って…」
「キョーコ…」
「こんな醜い気持ちの私なんて、敦賀さんに好きになってもらえる訳がないじゃないですか。そのくせ、敦賀さんがもし他の誰かと…なんて考えたら私っ…」
そうして語ってくれたあの日の真相。
「あの日…寝室のサイドテーブルに置かれたハガキを見てしまったんです」
あのハガキの送り主が俺の恋人だと思ったらしい。
遠く離れた地にいる恋人と、近くでその代わりを埋める存在の自分。そんなことを考えたそうだ。
力が抜けてソファーに身体を沈めた俺に、キョーコが慌てる。
「大丈夫…なんかすごい脱力感で…」
心配そうに覗き込んだ彼女に笑顔を作った。
顔が熱いのは熱のせいだけじゃないと思う。
キョーコは気付いていないようだけど、これはかなり熱烈な愛の告白だ。
「今度彼女に君を紹介するよ」
「なっ…!?」
「彼女は俺の大切な人だからね」
「…っ!」
「会ってくれるかな…母に」
「へぇ…?は…は!?」
唇を噛み締めて俯いていたキョーコが、弾かれたように顔を上げた。
一年前のささやかな仕返しだった。
「あのハガキは母から送られたものだよ。海外に住んでいてなかなか会えないからね。……俺に、他に恋人がいると思ったの?」
「あ、あの、そのっ…」
「俺ってそんな男?」
「ひぃ…っ」
「………」
ソファに肘を付いてそっと彼女の頬を撫でた。
肩を竦めて小刻みに震える彼女に、微笑みを返す。
「ごめんなさい…」
華奢な身体を更に細く縮めて、彼女が小さく呟いた。
「うん…お願いだから逃げないで。キョーコに逃げられたら俺…」
細く小さい彼女を強く抱きしめた。
振られた相手に対して、必死で愛を乞うなんて初めてだった。
「敦賀さん、私…」
「好きだよキョーコ。俺の恋人は君だけだ。君の恋人も、俺だけだよね?……俺だけにしてよ…」
「当たり前ですっ!…あっ……」
「ふふっ。キョーコが俺の腕の中に戻ってきたっ」
キョーコの両脇に腕を入れて、軽い身体を持ち上げ膝に乗せた。
「やっ、ちょっと…敦賀さんっ」
「やったぁ…よかった…」
俺の上で暴れるキョーコを腕の中に閉じ込めて、額にキスを繰り返した。
唇へのキスは風邪が治ってから。
キョーコに伝染してしまったら洒落にならないし、そもそもキスなんてしたらそこで止められる自信だってないから。
「好きだよキョーコ」
譫言のように繰り返す俺を、熱がぶり返したんじゃないかと心配するキョーコ。
笑った顔はもちろん、怒った顔も心配そうな顔も…
どの表情もこの一年間、俺が欲しくて欲しくて堪らなかった。
いまその全てが腕の中にある。
熱が下がったらこの喜びを全力で表すから。
覚悟して待っていて。
窓の外は相変わらずのどんよりとした梅雨空。
ほんの数日前…いや、数時間前までは俺の心の中を映し出したような天気だって思っていた。
どうやら一足先に梅雨が明けて熱い夏が始まったみたいだ。