なんとかコーヒーを淹れてリビングに運ぶと、敦賀さんはソファに腰かけて台本を熱心に読んでいた。

 

敦賀さんが仕事を休んだのは全部で3日間だけ。

毎日分刻み。時には秒を刻んでいるんじゃないかってくらいに忙しくしている敦賀さんは、明日から早速撮影現場に復帰しなくてはいけないらしい。

私がリビングに入ってきたことにも気づかないくらい台本に集中している。

音を立てないように慎重にコーヒーを置き、お盆を抱えたまま正座した。

こんな間近で尊敬する先輩の仕事に取り組む姿を見られなんて、とても貴重な経験だ。

それに…

 

暫くして、一息ついた敦賀さんは私が座っていることに気づいて少し驚いた後、またあの神々しい笑顔を私に向けた。

 

「ごめん、つい夢中になちゃって…」

 

「いえ…尊敬する先輩の真剣なお姿は、大変勉強になりますっ」

 

「………」

 

「…敦賀さん?…まさか、どこか痛むんですか!?」

 

もしかしたら

 

「……なんでそんなに他人行儀なの?」

 

「…え?」

 

そう言うと敦賀さんは無言で膝をポンポンと2回叩いた。

 

「?」

 

敦賀さんお意図するところが読めず戸惑っていると、さらに2回。

 

「あ、あの……っきゃあっ!?」

 

なかなか事態を飲み込めない私に痺れを切らした敦賀さんに、両脇に腕を入れられた。

そのままふわっと浮き上った私の身体が、くるっと反転したかと思うと、ぽすんと敦賀さんの膝の上に納まった。

 

「ちょ…つ、敦賀さんっ」

 

「キョーコの定位置はここでしょう?」

 

暴れる私を抑え込むかのように、敦賀さんはぎゅうぅっと私の身体を抱きしめた。

 

「んなっ!?…破廉恥っ!!」

 

「破廉恥って…もっとスゴいこと、するのに…?」

 

「!!!??」

 

夜の気配をふんだんに纏った帝王の表情で私を見下ろす敦賀さん。

その言葉で私は失念していた重大事項に気が付いた。

 

(お付き合い…て…ど、何処まで!?)

 

敦賀さんの顔が次第に近づいてきて、迫りくる脅威に反射的にぎゅっと目を閉じた。

 

「…………?」

 

「っくくく…」

 

けれど、しばらくして伝わってきた気配は私の予想とは反するものだった。

 

「敦賀…さん?」

 

「ごめんごめん。キョーコの反応が可愛くて調子に乗ってしまったよ」

 

「なっ…!?」

 

さっきまでの怪しい気配が嘘のように、敦賀さんは膝の上の私をふんわりと優しく抱きしめた。

 

「…揶揄ったんですね」

 

「うんごめん。キョーコが可愛すぎた。そんなに急いで大人にしないから、安心して?」

 

 

敦賀さんが恋人にだけみせる顔

謀らずしも実感した敦賀さんの甘さは、想像してた何倍も蕩けるように濃厚でいて甘美。

あの日、マリアちゃんと飲んだ爽やかな香りのファーストフラッシュが恋しくなった。

 

 

 

☆☆☆

 

 

 

敦賀さんの記憶が戻らないままに、事故から一週間がたった。

 

「お疲れですわね」

 

部室の長机に突っ伏してため息を吐く私を見たマリアちゃんが、向かいから声を掛けた。

 

「うん…」

 

「蓮さまと上手くいっていませんの?」

 

数少ない事情を知る一人であるマリアちゃん。

 

「上手くいってるもなにも…」

 

ため息の理由は、甘すぎる『恋人敦賀さん』だけじゃない。

むしろ……

 

「ねぇマリアちゃん…敦賀さんはいつになったら、元の敦賀さんに戻るんだろう……」

 

厳しくも役者として悩み真摯に向き合う背中を見せてくれていた敦賀さんや、少し意地悪な表情で私を揶揄う先輩の顔が恋しかった。

ほんの少しの好奇心から始まって偶然が重なった事故。

敦賀さんは恋人としてもきっと完璧な人なんだと思う。

甘く優しく包み込んでくれる腕の温もりも、私にだけ見せてくれる蕩けるような笑顔も。

 

(あれは本来私に向けられるべきものじゃないのに…)

 

罪悪感と後ろめたさで胸が重くなるばかり。

机の上に組んだ両腕に頭を乗せ、もう一度深くため息を吐いた。

 

 

 

「キョーコ、元気ないね」

 

夕食の後、リビングのソファに座った敦賀さんは、コーヒーを持つ手とは反対の手で私の髪を梳きながら覗き込んだ。

 

「悩み事?」

 

「え…あ、と…今度のドラマの役づくりで…ちょっと…」

 

手に持っていた次のドラマの台本が目につき、咄嗟に誤魔化してしまった。

 

「ああ…看護師の役だっけ?」

 

「はい…」

 

ついつい誤魔化してしまったのも事実だけれど、役作りに躓いていたのも事実。

話して行くうちに、状況も忘れて本格的に役作りについて相談していた。

 

「…じゃあ、今のことを踏まえてもう一度台本を読み返して?彼女の生い立ちや経験を……て、キョーコ!?」

 

突然敦賀さんが驚いたように声をあげた。

無理もない。

だって…

 

「どうしたの?どこか痛い?なんで泣いてるの!?」

 

敦賀さんは恋人になっても敦賀さんだった。 

そのことが嬉しくて、そして寂しかった。

 

只々、唇を噛み締めて涙を流す私。

なんの非もない敦賀さんが慌てたように私を胸に抱きこんだ…

その暖かくていい香りと少しだけ早くなった鼓動に、涙はさらに溢れるばかり。

 

「っ…つるが…さんっ…ひっ…く…」

 

「うん…なに?どうした?」

 

「ご、ごめんなさい~~~」

 

今の敦賀さんに真実を離しても混乱させるだけ。

敦賀さんは記憶が混乱してても尚、私が尊敬する役者としての先輩だった。

嬉しくて…でも私は自分の中にある罪悪感と後ろめたさや不安。それからほんの少しだけ敦賀さんの傍にいられることへの優越感に、我慢できないくらい押しつぶされて、ひたすら泣くことしかできなかった。

 

 

☆☆

 

 

目が覚めると、見慣れない天井だった。

ふかふかのマットレスと軽くて柔らかい羽毛布団。

それを包む白く清潔なシーツは、手触りも良く相当上質なものだとわかる。

 

「ん…最上さん、起きた?」

 

「!?…敦賀…さん?」

 

左に気配と温もりを感じて首を捻ると、すぐ近くにまるで彫刻のように整った敦賀さんの眠そうな顔があった。

 

「っ!?つつ…敦賀さんっ!……え?」

 

(今…『最上さん』って…)

 

「もしかして、記憶…」

 

「あぁ…俺、この数日間、最上さんと恋人同士だったんだって?」

 

小さく欠伸をして起き上がった敦賀さんが、私の事も抱き起してくれた。

 

「社さんに聞いたよ」

 

あの後、泣き疲れて眠ってしまった私を抱いたまま敦賀さんも少しだけウトウトしてしまったらしく、目が覚めた時には記憶が戻っていたらしい。

記憶を取り戻した敦賀さんは逆にこの数日間の記憶が曖昧だったことから、社さんに電話をして事の次第を把握したそう。 

 

「敦賀さんごめんなさい。…私があんな馬鹿なことをしなければ…」

 

「最上さんは悪くないよ。あれはただの事故だ。むしろ俺が浮かれていたばっかりに…」

 

「…?」

 

少し口ごもった敦賀さんは、ベッドから降りて私に手を差し出した。

 

「ほら、起きて朝ご飯にしよう?」

 

「敦賀さん、朝から珍しいですね」

 

食事に対する興味がゼロに等しい人の言葉とは思えない。

そんな私の言葉に反撃するかのように、敦賀さんはいじめっこの目で私に微笑んだ。

 

「そりゃまぁ…ずっとここにいたら、今すぐ君を大人にしたくなっちゃうからね」

 

「んなっ!?」

 

それは近い過去に聞いた意味深な一言。

 

「最上さん。この数日間で君に伝えたこと、そのまま俺の気持ちだから」

 

「…!?なっ、なっ…えぇ!?」

 

さぁご飯にしよう。なんて呑気に言いながら寝室を出ていく敦賀さん。

 

 

後を追いたくても私は腰が抜けて、立ち上がることも出来なかった。

 

 



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