11/27
とんでもない誤字発見の教えていただきましたので、こそっと訂正いたしました。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ピアノ講師×生徒
鍵盤の上を流れるように動く指先に、ただただ見惚れるばかりだった。
夢中で指ばかり見ていたから、肝心の顔が思い出せないくらい。
友人について偶然行った楽器屋さん。
展示されていたスタンウェイをデモンストレーションとして弾いていたのが敦賀先生だった。
踊るように動く長い指先から魔法みたいに広がるピアノソナタは、特別大きな音で引いているわけじゃないのに、周りの音が一切聞こえなくなるほどに私の中に響き渡った。
「………ゃん…キョーコちゃん!」
ポンッと肩を叩かれ、驚いて我に返る。
「どうしたの?」
心配そうに私の顔を覗き込む百瀬さん。
「あ…えと…」
そうだった。
今日は吹奏楽部の百瀬さんに付き合ってここに来たんだ。
百瀬さんは私の視線を追って、納得したように頷いた。
「カッコいいよね敦賀先生」
目元を少し赤らめながら百瀬さんが呟く。
「え…先生…?」
「そうだよ。敦賀先生はここに併設されている教室でピアノを教えてるんだよ」
百瀬さんの指さした先には、生徒募集の張り紙があった。
☆☆☆
「最上…キョーコさん」
「はい…」
入会資料を捲る指先に釘付け
「………すか?」
「…えっ!?」
「もしかして、聞いてなかった?」
「………すみません」
まさか指先に見惚れていたなんて言えずに、俯いて謝った。
「緊張してる?」
「は、はいっ」
緊張しているのは初めてのレッスンだからじゃなくて……
「最初は誰でもそうだよ。俺は講師の敦賀です。これからよろしく」
差し出された大きな手は指先までしなやかに真っすぐ伸びていて、短く切り揃えられた爪の先まで見惚れるほどに綺麗だった。
この指がピアノの上を滑って、あんなにきれいな音色を奏でると思うと、なんだか神秘的なものに思えて、触れることに躊躇ってしまう。
「あ、ごめん。今どきの子は握手なんてしないかな?」
「あっ、い、いいえっ。よろしくお願いします」
恐る恐る触れた敦賀先生の手。
暖かくて大きなその掌は私の手をすっぽりと包み込んで、優しく、でも力強く握り返してくれた。
「……最上さん?」
「あっ、ご、ごめんなさい」
先生の手を握ったままだったことに気づき、慌てて離そうとした瞬間、ぎゅっと一瞬だけ強く握られた気がした。
「さあ、さっそくレッスンに入ろうか」
「あ、はい」
何事もなかったようにピアノの方をむいた先生。
自意識過剰な自分に少し恥ずかしくなりながら、私も気持ちを切り替えて先生とのレッスンに臨んだ。
☆☆
毎週水曜日の夕方は敦賀先生とのレッスンの日。
でも今日はいつもと違って辺りも暗くなった夜8時。
「こんにちはキョーコちゃん」
オーナーの社さんがメガネの奥で優しく微笑みながら私を迎えてくれる。
でも私の視線はガラス張りのレッスン室に釘付けになった。
「今日ちょうどメンテナンスから返ってきたんだ。だから蓮が試し弾き」
初めて見た時のあのスタンウェイ。
少しだけ開いた防音室の扉から漏れ聞こえるのも、あのときと同じピアノソナタ。
「きれい…」
「そういえば、キョーコちゃんが初めてここに来た時も蓮がこの曲を弾いてたね」
もう何カ月も前の、私が初めて訪れた時のことを社さんが覚えていることに驚いた。
「ふふっあんまりにも食い入るように見てたから印象に残ってるんだ」
笑いながら打ち明ける社さんに、恥ずかしさで頬が熱くなる。
「やだ、私…」
「あんなにキラキラした瞳でピアノを見てくれるなんて嬉しくて。俺も、それから蓮も……」
「先生も?」
「そう蓮の奴…」
「最上さん、来てたんだね」
社さんの声を遮るように敦賀先生が部屋から出てきた。
「社さん、おしゃべりはそのくらいで。お客さん来てますよ」
「はいはい。じゃあキョーコちゃん、ごゆっくり」
なんだか含みのある笑い方をして社さんはお客さんの対応に行ってしまった。
「さあ、レッスンを始めようか」
「先生、今日は私の都合で時間を変更してもらってすみませんでした」
高校の特別講習で、今週は学校に遅くまで残らなければならなかった。
曜日の変更をすることも出来るけれど、敦賀先生がレッスンに来ているのは水曜日だけ。
「いや、熱心な生徒さんでうれしいよ」
スマートに扉を開けて私を先に部屋へと促してくれる。
その動作があまりにも自然で、そんな小さなことからも大人と子供の違いを見せつけられているようだ。
女の子として扱ってくれる嬉しさと、慣れた仕草の裏にある先生の経験値に嫉妬する気持ち。
そのふたつが綯交ぜになって複雑に絡む。
「先生」
「ん?」
閉店間際の店内とレッスン室を遮るように、スクリーンカーテンを引く敦賀先生が振り返った。
「さっきのピアノソナタ、聴かせてもらえませんか?」
なぜか無性に先生のピアノが聴きたくなった。
あの踊るように鍵盤の上を滑る、長くしなやかな指先を間近で見たくなった。
「君だけのために?」
「私だけのために」
視線が絡む。
先生の涼し気な瞳の奥に、熱が籠ったのがわかった。
私の前まで戻ってきた先生が指先で私の頬に触れる。
あの、優しく慈しむようにピアノに触れる指先で。
私の頬を、首筋を……
辿る。