私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。
(早雲は最初は伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)と名乗っています。)
興国寺城(こうこくじじょう)の主となった盛時は京より正室の陽子(ようこ)と子の伊豆千代丸(いずちよまる)を迎えました。
盛時の興国寺城は駿河国の東に位置し伊豆国に近い場所にありました。
盛時は討ち取った小鹿範満(おしかのりみつ)を外部から推していた扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)が攻めてくることを予想し戦の準備に取り掛かっていました。
扇谷上杉家は小鹿範満さんを推して今川氏を取り込もうとしていたんだよね。
そこへ盛時の忍びの小太郎(こたろう)が戻ってきました。小太郎は扇谷上杉家の様子を調べていたのです。
小太郎「盛時様、扇谷上杉家はこちらに攻めてこないよ。」
盛時「ん⁈ 何故だ?」
小太郎「山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)と戦を始めたんだ。」
上杉氏はいろいろと諸家に分かれ山内上杉家は関東管領職を独占してる家だったんだ。
盛時「上杉同士で争うとは…関東の状況はひどいものだな。」
関東は長く続いた享徳の乱が終わったばかりなのに、山内上杉家と扇谷上杉家が争う長享の乱が始まっていたのです。
盛時はこの時期を今川氏の体制を固めることに精力を注ぎました。
1488年、盛時に驚くべき報せが入りました。
北陸の加賀国で一向宗の本願寺(ほんがんじ)の門徒が守護の富樫政親(とがしまさちか)を滅ぼしてしまったのです。
一向宗、本願寺門徒さんが起こした一揆を一向一揆(いっこういっき)っていうんだよ。門徒さんは僧侶、武士、農民、商工業者など様々な人だったんだ。
盛時「一向一揆には民もいる。民が守護大名を倒すとは…。民を侮るとこうゆうことになるのだ。」
加賀一向一揆は盛時は民を大切にすることを更に確信させる出来事だったのです。
1489年、京からさらに驚くべき報せが入ったのです。
それは将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)様が亡くなったとの報せでした。
義尚様は六角氏(ろっかくし)攻めの陣中で病死したのでした。
義尚さんの死因は酒害みたいなんだ。お酒の飲み過ぎには注意しなきゃね。
盛時「義尚様は応仁の乱を経て、ようやく将軍になったのに…哀れなことだ。」
新たな将軍には義尚様の従兄弟で義尚様と将軍職を争った足利義視(あしかがよしみ)様の子・足利義材(あしかがよしき)様が就いたのでした…。
つづく…
次回をお楽しみに〜