私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。
(早雲は伊勢早雲(いせそううん)と名乗っています。)
1487年から山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)と扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の争いは今だ続いていました。
この争いは長享の乱って呼ばれているんだ。
扇谷上杉家は当主の上杉定正(うえすぎさだまさ)殿が亡くなり、後を甥の上杉朝良(うえすぎともよし)殿が継ぎました。
しかし、山内上杉家の当主・上杉顕定(うえすぎあきさだ)殿の反撃、さらには山内上杉家と古河公方(こがくぼう)の足利政氏(あしかがまさうじ)様の同盟で扇谷上杉家は苦境に立たされていたのです。
そんな苦境の扇谷上杉家の上杉朝良殿は早雲に軍事支援を求めてきたのです。
上杉朝良殿は早雲が扇谷上杉家の家臣であった大森藤頼(おおもりふじより)殿から小田原城を奪ったことに対して容認していました。
早雲は新たに家臣となった大道寺重時(だいどうじしげとき)と状況を話し合っていました。
早雲「扇谷上杉家はわしの支援を受けたいがため、小田原城を奪ったことも認めたのだな。」
重時「はい。ただ大森藤頼は山内上杉家と密かに通じようとしていたとの噂もあります。」
早雲「なるほどな。此度の軍事支援は今川氏(いまがわし)も依頼しているようだ。今川が受けたのにわしが出ないわけにはいくまい。」
重時「では出陣で?」
早雲「うむ。この期に乗じて山内上杉家の力を削いでおきたいからな。それに相模一国を治めるには周辺を見定めねばならぬからの。」
早雲は扇谷上杉家に協力することにしたのです。
つまり、こうなった⬇️わけだね。
上杉顕定・足利政氏
vs
上杉朝良・今川氏親・伊勢早雲
1504年、上杉顕定殿は足利政氏様の援軍を得て、上杉朝良殿が籠る扇谷上杉家の拠点・河越城を攻撃しました。
上杉顕定さんは1504年以前より河越城を攻めてたんだけど失敗して7年もこの地に釘付けされていたんだ。
その頃、早雲は小田原城から出陣したのです…。
つづく…
次回をお楽しみに〜