「何がやりたいのか」、この15年を振り返って。


「国会議員をたった一年で辞めて、一体何がやりたいのか?」という質問・批判がある。

この10年、「何がやりたいのか」と問われれば、「地域の活性化」「自立型分権国家の樹立」である。つまり、「地域のための国家の統治システムの変革」である。つまり、「地域活性化のための中央集権国家から地方分権国家へのシステム変更」である。




小学校時代、将来なりたいものは「政治家とお笑い芸人」だった。これは僕の著書には書いているが、周りから驚かれた。
僕の人生(生涯)は、小学校時代の夢・目標を達成するプロセスであると言っても過言ではない。いまだに、ガキの頃の夢を追っているのだ(笑)。青いと言われればそれまでだ。
 もう一つの解。「何がやりたいのか」と問われたら、「小さい頃からの夢や目標を実現すること」と答えるかも知れない。
九州(宮崎)から東京に出て、大学を卒業してビートたけし師匠に一番弟子として弟子入りした。




転機は、1998年の不祥事(風俗事件)であった。
この風俗事件が今でも揶揄・批判される所謂「淫行騒動」である。当時、仲間と渋谷のとある風俗店に行った。そこで僕がサービスを受けた女性が未成年であった。勿論、店は女性の年齢を偽っており、僕は彼女が未成年であることは知らなかった。後日、「その店を青少年育成条例と児童福祉法違反で摘発するため、その店が未成年の少女を雇用していたことを証明してくれないか」と警察から任意の協力依頼があった。別に拒否も出来たが、当然の義務と思い、それに協力した。そのことがマスコミに洩れた。いや、洩らされたのだ。
 別に、風俗店に行ったことで罪に問われた訳でもなかったし、巷間言われている「淫行」でも無かったが、妻子があるのに風俗店に出入りし、世間を騒がせたことは事実であった。加えて、公人でありながら、スタッフやファンの方々にご迷惑・ご心配等をお掛けした(特に、子供たちに悪影響を及ぼす)ということでそれ相応の責任を取らせて頂き、自主謹慎をした。
その時、自分自身を振り返り、猛省し、自己変革のために地域貢献や社会貢献等の実践を考えた。

そこで小さい頃からの夢・目標だった「政治家」という立場での地域貢献や社会貢献を考え、ゼロからの学び直し、人生の再スタートとして大学受験にチャレンジした。2000年春、早稲田大学第二文学部に入学。先ずは政治思想・宗教・哲学等の基礎から学ぶことにした。

第二文学部を卒業後、続けて2004年春、早稲田大学政治経済学部(政治学科)に入学した。その3年時、当時の宮崎県知事が官製談合・受託収賄等で逮捕・辞任され、出直し選挙となった。熟慮・熟考の末、不退転の覚悟で出馬を決断した。



20071月、大方の予想を覆し、県民の皆様の大変な負託を受け、宮崎県知事に就任させて頂いた。

2000年、早稲田大学で政治(主に地方自治)を勉強・研究し始めてから、僕は、特に「地域・地方のための国の統治システムの変革・中央集権国家、官僚主導の打破・国と地方の分権化(役割分担)・二重行政解消等」に関心を持ち、それらを勉強・研究の対象としていた。所謂、僕のライフワーク、永遠の政策課題・目標となった。勿論、統治システム改革はあくまで地方の自律的振興・発展のためである。


宮崎県知事に就任中、常にその課題(国と地方の関係)にぶつかり、悩まされた。勿論、地方行政を取り巻く課題はそれだけではなかったが、地方の裁量権の希薄さは全ての行政課題と地方の自立に悪影響を及ぼしていた。この国の統治システムは、価値が多様化・複雑化する社会の中で最早綻びが目立ち、至る部分で制度疲労が生じていた。現在の地方の疲弊と地方間格差は、この制度疲労に起因している部分が多いというのが僕の実感である。



地域・地方のため、中央集権・官僚主導国家を打破し、地方の自主自立、裁量権のある地方、自立した地方分権国家の樹立が、僕の大きな目標となっていた。

その実現には、国と地方の両輪から施策を進めなければならない。地方からやる場合、国に発言力・影響力のある、国に依存度の小さい、出来るだけ自立した大規模な自治体が好都合である。つまり、それが東京だった。政治行政の世界でよく言われる「東京から国を変える」というやつである。




時を同じく、大阪で大阪都構想(統治システムの改革)にチャレンジしているのが、大阪維新の会であった。これは、大阪府と大阪市の行政組織を一元化するという、行政的にはとてつもないチャレンジであり、仮に実現した場合、それは行政史に残る偉業になる。僕は、当然、応援・協力した。大阪程の大きな自治体の行政・統治システムが変われば、それは恐らく全国の自治体(特に大都市)に影響を及ぼし、国家構造そのものにもその改革が及ぶと考えていた。



20113月、「東京から国家構造の変革」を目標に、東京都知事にチャレンジするも、落選。その後、その夢を託せるのが大阪維新の会の存在であった。大阪維新の会は、その後、201211月、総選挙を前に「旧立ち上がれ系」と電撃合流をし、それを機に、少なくとも僕から見たら、維新が変容・変質したと言わざるを得ない状況になった。

当時、橋下氏は、「改革は、国政で過半数を獲得し、一期4年で電光石火やり遂げる」とぶち上げた。彼の言う通りだった。理想ではあるが、政治は常に「理想」を追い求めなければならない。また、彼と僕の共通持論は、「改革はスピーディに」「政治行政は、一期4年でやれない人間は、二期やってもやれない」「人生は一度。自分が出来る限界までやってみる」である。




しかし、衆議院獲得議席は54議席。一時は200議席獲得とも言われた下馬評は大きく後退した。伸び悩みの一因が「旧たちあがれとの合流」であったことは否めない事実であった。


 結果、自民党の圧勝で、維新は民主に続く野党第二党という位置付けだった。永田町政治・議院内閣制・民主主義は、少数意見は尊重するも残念ながら最後はやはり数の論理である。

その後、維新は、東京都議選、参議院選、堺市長選等の敗北によって、そのプレゼンスは弱まり、維新の原点であった「統治システムの変革・グレートリセット・道州制の導入・首相公選制導入・国会議員定数削減・一院制導入・参議院議員と地方首長の兼務」等の僕が最も賛同した、エッジの効いた維新らしい行財政改革・政策は残念ながら影を潜めた。

先進的改革派の政党というイメージは結果的に後退し、「憲法9条改正」「憲法破棄」という超タカ派のイメージが先行した。(因みに、僕は「憲法改正は必要。時代に合った憲法にすべき。先ずは、96条改正と地方分権・統治システム変更のための憲法改正。平和憲法の全否定は有り得ない」という考えである)




「維新の変容・変質」を離党の理由と説明したが、正確には、「維新の変容・変質」を国民や支持者の方々に伝え、説得できないもどかしさであった。尚、今回の離党・辞職の理由については、このブログ「一年を振り返って」の中で説明させて頂いた。
「一年で辞めた」「中途半端」という批判は甘んじて受けなければならない。しかし、僕にとっては長く暗く、悩みに悩んだ一年であった。

それでも、明確に言える。「何がしたいのか」という問いには、「地域・地方のために、この国の形を変えたい」と。



この一年は僕の人生にとって本当に貴重な一年となりました。

最後に、この一年、日本維新の会の国会議員として支えて頂いた全ての方々に、この場を借りて厚く御礼を申し上げる次第です。本当にありがとうございました。

来年、またどういう出来事・人生が待ち受けているか分かりませんが、僕らしく、独特の世界観(笑)で「俺流」を貫いて行きたいと思っておりますので、引き続きご指導・ご鞭撻等宜しくお願い申し上げます。

 皆様、良いお年を。