夜汽車の汽笛への憧情 -8ページ目

蒸気機関車C62現る

うちの鉄道模型の主要テーマの一つは夜行急行列車です。
東北方面の夜行急行列車の代表格といえば「十和田」「八甲田」「津軽」ですが、一番本数が多いの「十和田」を初めとする常磐線経由の夜行急行列車群でした。

と言うわけで、常磐線経由の夜行急行編成バリエーションは多く、魅力的な列車も多いのですが、より魅力の高い昭和30~40年代の編成を再現するのに必要な機関車として欠かせないのがC62形蒸気機関車でした。
特に常磐線は諸々の事情で電化が遅く、全線電化が昭和42年だったこともあって、それだけC62活躍が目立ったと言えるでしょう。
と言うわけで、我が家でも東北方面の昔の急行列車を再現するためC62形が欲しかったのですが、常磐線仕様のものがなかったためずっと見送っていたのです。
妥協して他のC62形を買おうかともおもっていたのですが、この度ようやくKATOから常磐線仕様のC62形が発売されたため、早速飛びつきましたw

常磐形のC62です。表示に「ゆうづる牽引機」とありますが、常磐線を担当する平機関区にいたC62は全て「ゆうづる」牽引の経験ありです。
しかし、実際には車両によって好不調があり、特に好調機と言われた23号機と48号機が優先的に「ゆうづる」の牽引に充てられました。
48号機は汽車製造製でスタイルが既存KATOの他のC62と大きく異なっているためか、このモデルでは23号機がモデルとなっています。
常磐形の特徴である動力逆転機カバーか外れた姿や増炭覆いのある炭水車、シールドビームの副灯の他、機体毎に違うとも言える配管パターンや23号機特有の短い煙突も再現してあります。
他の常磐形としても遊べる様、通常の長さの煙突や、22号機用のスノープロウまで付いた親切仕様な製品だったりもしますw

製品ままの姿。
太いボイラーが力強い印象の機関車です。
23号機特有の短い煙突も印象的ですねw

後ろ側はこんな感じ。
増炭覆いのある炭水車や高い位置のナンバープレートなど、常磐線仕様らしさが再現されてます。

付属パーツが山盛りですw
ナンバーや「ゆうづる」のヘッドマークのほか、交換用のカプラー、煙突などもあります。
さて、ナンバーは19,22,23,24が入ってます。素直に行けば23を付けるのが良さそうですが、23号機は「ゆうづる」の先頭に立つことが多い機関車でした。つまり、急行用としては23号機以外の方が良さそう・・・と言うわけで考えたところ・・・
19号機は日立製かつ昭和38年に仙台転属のうえ早々と引退
22号機は元「はつかり」牽引機で逆転機が手動式に改造されている
と言うことで、半ば消極的選択で24号機にすることにしました。
24号機は煙突こそ通常タイプであるものの、配管等が比較的23号機と似ていた様なのでちょうど良さそうです。

早速入線整備しました。

やはり格好いいですね!
カプラーはナックルカプラーに。煙突は製品付属の通常タイプに交換しました。
他、23号機とは細かな差があると思われますがとりあえず気にしない事にしますw
前面のハンドレールは銀色ですが、これは23、24号機とも銀色の時代と黒色の時代があったようです。製品は「ゆうづる」を牽いた昭和40年代をターゲットにしているので銀色で正しい様ですね。

サイドビューはこんな感じ。
運転席部分のナンバープレートが高いのは23,24号機共通の特徴です。
複雑な配管類の表現がヤバいですねw


先輩格のC59と並べてみました。どちらも迫力ある大型機ですが、C59よりC62の方がボイラーが一回り大きいのか判ります。

折角なので両方ともヘッドマーク付にしてみました。いやぁ、格好いいですね!
ちなみに「ゆうづる」のヘッドマークのデザインはC62に映える様に作られたそうです。こうして見ると納得ですね!

最後に、いつもの実車解説です。

C62は戦後まもなくの昭和23年に、幹線用の急行・特急列車向けに余剰気味だった貨物用機関車D52のボイラーを使用して登場した旅客用の蒸気機関車です。
進駐軍により抑えられて新製もままならぬ中、進駐軍将校の指導により登場したもので、D52由来の太いボイラーと大きな動輪により力強いスタイルが特徴です。
出力は1620psと国内の旅客用機関車としては最強で(貨物用も含めるとD52形の1660psが最高)、スピードは狭軌の蒸気機関車としては当時最高である129km/hの記録をマークしています。運転最高速度は100km/hでした。
(もっとも、当時の客車の最高速度は95km/hだったので、営業運転での最高速度は95km/hでした。)
動輪は旅客列車用らしく大型のものが3つで、動力用のシリンダーは2つとなっています。
巨体で重量があるため、基本的に主要幹線のみでの使用を前提としており、東海道本線、山陽本線、東北本線、常磐線、函館本線と、軍港がある関係で重要路線となっていた呉線のみで使用されました。
なお、C62は軸重を調整できるようになっており、東北本線、常磐線、函館本線では線路の規格が一段低いため、軸重を軽減して使用していました。

ここで歴史を追ってみましょう。
C62形蒸気機関車は昭和23年当時後、まずは東海道本線浜松以西と山陽本線(呉線)に投入されました。諸事情により初期車については自動給炭機を省略して工場から出場したため、本来東北方面に投入予定だったものもメーカーに近い区所に暫定配置され、昭和24年に自動給炭機取り付けおよび軸重化対応のうえ東北本線(白河以南)・常磐線(平以南)にも投入されました。同年製造の最終増備車(45~49)については、最初から東北方面仕様で登場しています。
以後、大きく分けて東海道・山陽本線、東北・常磐線、函館本線で活躍しますが、昭和40年代まではそれぞれ独自の歴史を歩んでいます。

さて、東海道・山陽本線のC62は昭和24年に復活した特別急行「へいわ」→「つばめ」「はと」を初めとし、主要な急行列車や普通列車にも使用されました。
投入当初は同じ大型機であるC59形と共通運用でしたが、特別急行についてはC59形では性能的ちギリギリだったことから、やがてC62形かつ、調子の良い機体に限定して運用され、C62形は東海道本線のトップスターとして君臨することになります。
また、昭和28年には山陽本線で特別急行「かもめ」が運行開始となり、山陽本線でも特別急行の牽引機として活躍。浜松から下関の間でスターとして君臨しました。
しかしながら、東海道本線では電化推進が急ピッチで行われて活躍の場は西に追いやられ、登場後僅か8年の昭和31年には全線電化により東海道本線から撤退。東海道のトップスターの座は電気機関車のEF58形に明け渡されることになってしまいます。
ここで余剰となったものについては山陽本線に移った他、一部が軽軸重化対応のうえ、函館本線に投入することになりました。
引き続き山陽本線に残ったグループは旅客列車をメインに貨物列車にも使用されつつ活躍しますが、動力分散化と電化の波に飲まれて行くことになります。
昭和31年に運転開始した夜行特急「あさかぜ」の成功で「はやぶさ」「さちかぜ」等の夜行特急が増発され、また昭和33年には新型の寝台特急用客車20系も登場してますますC62の華々しい活躍の場が増えます。ボイラーも戦時製で工作の悪かったD52由来のものから新品のものに交換され、C62形の第二の黄金期とも呼べるでしょう。しかしながら、昭和36年にキハ80系特急形気動車が登場し、「かもめ」の運用を失います。その後は電化も進んで次第に西側に追いやられ、昭和39年に山陽本線の電化が完了。登場15年余りで廃車が始まります。
残ったものは糸崎に集結し、大型機仲間のC59形と共に呉線で活躍する事になります。
呉線では東京直通の夜行急行「安芸」や山陽夜行の「音戸」を中心として普通列車から貨物列車まで幅広く活躍しますが、昭和42年に一部が常磐線からの転出車に置き換えられ、軽軸重対応車が混じる事になります。軽軸重車はC59より牽引力に劣るため、列車重量の重い「音戸」かC59のみになったりする一方で、優等列車を牽引する蒸気機関車自体が減っていたこともあって「安芸」には急行ながらヘッドマークが用意され、C59形と共に晩年を飾る事になりました。
山陽地区のみならず本州最後の活躍の場となっていた呉線も昭和45年にいよいよ電化の波が訪れ、EF58にバトンを譲って山陽地区を去ることになりました。

東北方面については東北本線・常磐線共に運用区間を北に伸ばしますが、東北本線は軌道強化のうえ東海道本線の電化進展で余剰になったC59が転入してきたため、昭和29年には常磐線中心の運用になり、昭和30年には東北本線からはほぼ撤退する一方で常磐線では全線で使用されるようになりました。
昭和33年には常磐線経由の特別急行「はつかり」が登場します。こちらは専用カラーの客車がスハ44系と10系の混成で使用され、東北方面初の特急列車で華々しい活躍を見せる事になります。
特に「はつかり」運用では上野から仙台まで石炭補給なしの通し運転となり、そのために炭水車に増炭対応が施されて常磐仕様の特徴となったほか、「はつかり」使用機は堅牢性重視のためこ、逆転機の手動化改造が行われました。
この頃はまだ北海道連絡の長距離列車は常磐線がメインとなっていたので、C62形はまさしく東北方面のトップスターだったと言って良いでしょう。
しかし、東海道・山陽地区同様、昭和35年頃から次第に電化や動力分散化の流れに追われる事になります。
昭和35年にキハ80系特急形気動車が登場し、唯一の特急運用だった「はつかり」から外されることになりました。昭和38年には平までの電化が完成。平以南の運用は交直両用の電気機関車EF80にとって代わる事になります。この時余剰になったC62は仙台以北の東北本線での使用が検討され仙台に移されますが、従来使用していたC60形やC61形に比べて運用コストが嵩む事や、既に安定してC62形並のパワーを誇るDD51形ディーゼル機関車が登場していたこともあり、殆ど使用することなく廃車となってしまいました。
残ったC62形は平~仙台間で急行列車や普通列車、時折貨物列車にも使用して活躍します。
昭和40年に急行「北斗」を格上げする形で東北の寝台特急第二弾となる「ゆうづる」が運転開始となります。「ゆうづる」は常磐線経由であったため、C62の特急運用が復活する事になりました。C62形最後の特急運用であることからかC62形に映えるデザインとされたヘッドマークを取り付け、20系客車の先頭に立って颯爽と走りましたが、昭和42年に常磐線にもついに全線電化の波が押し寄せ、赤い機関車ED75にバトンを渡して常磐線から去ることになりました。
この時に常磐線で活躍していたC62形の大半は廃車となりましたが、検査周期に余裕があり比較的好調だった機体が、前述のとおり糸崎に移籍し、本州最後の活躍をする事になりました。

さて、北海道では昭和31年に東海道本線から余剰となったC62により函館本線での活躍が始まります。函館本線でのC62形は急行列車中心メインでスタートしました。特筆すべきは、函館本線の小樽~長万部間で、同区間は勾配・曲線の続く山岳区間となっていたため、C62形同士の重連運転が見られました。以後、函館本線でもC62形はトップスターの座に付きますが、北海道では昭和36年以降無煙化の波に追われる事になります。
昭和36年に北海道初の特別急行「おおぞら」が運転開始となりますが、こちらは運転開始当初からキハ80系が起用されます。以後、函館本線の急行列車は格上げにより次々と特急化されますが全て気動車により行われ、北海道ではC62形は特急運用に就くことはありませんでした。
昼行急行についてはキハ56系により気動車化が行われます。これによりC62形は次第に運用を失い、最後に残った優等運用は本州連絡の郵便・荷物車連結のため客車で残った急行「ニセコ」でした。昭和45年にはついに最後のC62活躍の場となりますが、昭和46年にいよいよ急行「ニセコ」の運用をDD51形ディーゼル機関車に譲り、優等列車での定期運用を失います。
以後、普通列車等で細々と活躍しますが検査期限の切れたものから順次廃車となり、昭和48年に最後に残ったC62 3が廃車となり、国内最強の旅客用蒸気機関車C62形は僅か25年の活躍を終えるのでした。
なお、2号機は動態保存前提で梅小路機関車館で保存され、昭和40年代に数回臨時運転を行った後は本線での運転はないものの、動かす事ができる状態となっており、分割民営化直後には何度か駅等での展示を行ったほか、現在も京都鉄道博物館でSLスチーム号として動く姿を見ることができます。

さて、時代は進んで分割民営化も迫った昭和61年。分割民営化のアピールとして静態保存されていた3号機が動態状態に復帰。昭和63年からは快速ニセコ号として小樽~倶知安で運転も行いました。しかしながら運転費用がままならず、諸事情から平成7年に運転を終了。以後静態保存に戻り、現在に至っています。

スターとして登場したC62形は数々の華々しい活躍をしながら、急速な近代化の波に飲まれて僅か25年で消えていきました。その煙突の如く「太く短く」の歴史だったと言えるでしょう。

我が家ではC59形と共に急行列車の先頭で活躍する予定です。
・・・たまには「ゆうづる」も牽かせてあげたいですねw

2/23追補

24号機、公式側の写真があまりないのですが、たまたま過去にあった雑誌で見つけたところ、どうも砂撒き管が露出しているようですね。(モデルになった23号機は露出していない)
また、24号機はボイラー前面に23号機にないシンダー除けが付いていて印象がちょっと違うようです。
23号機と24号機、1番違いですが色々異なる様です。やはり蒸気機関車は手強いですね。ううむ。

青梅線を走った電車達(その3)

青梅線を走った電車達シリーズ
今回は分割民営化後の青梅線の電車について書いてみます。


4.103系の入れ替わり
分割民営化前に線内103系、直通201系の体制となった青梅線ですが、その陣容は大きく変化していくことになります。
分割民営化前に3両編成と5両編成を解消し、4両編成と6両編成になりましたが、3両編成についてはモハ102とクハ103の間にサハをはさみ4両編成になりましたが、5両編成については一筋縄で行かなかった様です。
前々回にも書いたとおり、武蔵野線の6両編成と共通運用とし、不足分について5両編成の真ん中にサハを挟む対応となりました。
このとき、余った編成についてはモハユニットを捻出した上でサハを入れて4両とした編成になっています。なお、新たに挟んだサハには一部72系からの改造車である3000番台も導入されましたが、これらはドアに半自動用取手が付いて異彩を放っていました。
分割民営化直後に武蔵野線にP形のATSが導入されますが、同路線のクモハについては床下に機器スペースが不足していたため、運行番号窓が埋められて独特の顔つきとなります。
このため、青梅線では運行番号窓のあるクモハと無いクモハの両方が走る姿を見ることができました。
東京直通列車は車両的には201系のみの体制であることに変化はありませんが、運行形態には大きな変化があり、昭和63年に青梅線直通列車の特別快速が登場します。


これまでも休日にはホリデー快速の「おくたま」「みたけ」「あきがわ」号という形で中央線直通の特別快速は運行されていましたが、定期列車としては初めて特別快速が運行されることになりました。青梅直通の特別快速は国分寺駅を通過するため、「青梅特快」となり、高尾方面は「中央特快」として区別されましたが、やがて青梅特快も国分寺駅に停車するようになっています。
なお、ホリデー快速が青梅線内でも快速運転するのに対し、青梅特快は「特別快速」であるものの、青梅線内は各駅停車となりました。

平成に入ると、4両編成と6両編成を使用して青梅線でも線内運用で10両運転を行う様になり、一部は青梅で切り放して4両を奥多摩まで直通させる列車も登場しました。これに伴い編成の分割・併合を省力化するため先頭車に電気連結器が取り付けられる事になりましたが、クモハはその設備を搭載するスペースが不足するため、両端をクハの編成に統一することになります。また、青梅線は初期車が多く冷房化が遅れており、後期車投入で冷房化を推し進めることになりました。これにより、クモハ付の編成や初期車で非冷房の車両が大部分を占めていた青梅線の陣容は大きく入れ替わることになります。
冷房付で両端がクハの編成は205系を投入した横浜線や埼京線等からが転入し、元からいたクモハ付きの初期車編成は南武線や鶴見線に転出して同路線の101系を置き換えて行きました。

クハやモハの試作車や初期車は廃車となるものも現れますが、モハの初期車の一部には京浜東北線に戻ったものも存在します。
また、武蔵野線と共通運用を行っていた6両編成については同時期に武蔵野線の8両化に伴い共通運用が解消され、青梅線からクモハ103が姿を消したのでした。また、これに伴い車両の陣容は殆ど入れ替わり、昭和51~53年に旧型国電を追い出した103系初期車は青梅線から去って行きました。
なお、平成8年から平成11年の間、八高線車両による立川~拝島間の八高線乗り入れ列車が存在しました。車両にはウグイス色の103系3000番台や103系3500番台の他、209系3000番台も使用され、青梅線では異彩を放っていました。

5.201系の時代へ


103系の交代劇が行われる中、201系はかつての101系同様「お客様」的な立場で、主役とは程遠いものの、東京直通列車自体の増加により比較的目立つ存在にはなっていました。
前面に電照式の大型種別表示装置が付く等の変化はあるもののほぼ無風と言って良い状況でした。
それが、平成10年代に入るとさすがに103系も老朽化が目立つ様になってきました。そこで、中央・総武緩行線209系500番台やE231系を投入。同路線で老朽化していた103系を置き換えるのと同時に201系も捻出し、青梅線の103系を置き換える事になりました。
中央・総武緩行線の201系は多くが4両+6両の編成となっており、ちょうど都合が良かったと言えるでしょう。
中央・総武緩行線から転入した201系はオレンジ色となったものの、電照式の大型種別表示がないため青梅・五日市線専用車となり、前面の運転台窓下の黒い部分に梅の花のデザインをあしらった「青梅・五日市線」のステッカーが貼られて直通用と運用が分けられました。
元々青梅・五日市線運用の103系はさほど多くないため置き換えも短期間で完了し、平成14年を最後に25年もの間に青梅線で活躍した103系が去って行きました。
また、これにより青梅線の電車は直通用・線内用とも201系になり、青梅線は国有化以降初めて形式統一されることになりました。
さて、青梅線の201系と言えば、特筆すべきは通勤形としては珍しいジョイフルトレイン「四季彩」でしょう。
4両編成を改造して作られたこの編成は特別塗装されるだけでなく、御嶽渓谷に面した方の窓を209系の様な固定窓に変更。座席もクロスシートや川側を向いた座席に変更されています。
形式変更こそないものの観光用電車として土日・祝日に青梅~奥多摩間で限定運用が行われた他、稀に他線に臨時列車として運用されました。
なお、青梅線内でも立川~青梅間は10両編成が基本となり、線内運用でも中央線直通編成による運用が増える一方、青梅以西と青梅以東で乗客数の乖離が大きくなった事から、奥多摩乗り入れ列車はそれまで立川~奥多摩間通し運転だったものが、大部分が青梅~奥多摩の区間運転に変更され、立川~奥多摩を直通する電車はごく少数となってしまいました。

6.新しい時代へ

平成14年に201系化が完了した青梅線でしたが、そのわずか4年後。中央線に新型のE233系が登場します。既に青梅線は中央線直通編成による線内運転も多くなっており、自ずとE233系が青梅線でもデビューを果たす事になるのでした。
E233系は新世代のJR東日本の電車らしく増殖スピードがすさまじく、東京直通列車のみならず線内運用でもE233系が一気に増えていきました。
平成19年には青梅・五日市線内用のE233系も投入されます。
国有化以降、青梅線の線内運用車は他線からの転属により賄われてきたのが、63年目にして初めて新製投入されたのでした。
線内運用のE233系は青編成と呼ばれ運用は分けられたものの、201系とは異なり仕様自体は中央線の分割編成と同じものになりました。
線内運用車は4連と6連が組み合わせを変えながら分割・併合を行っており、201系とE233系は混用できないため置き換えは一気に行われ、平成20年2月19日にわずか1日で「青梅・五日市線」ステッカーを貼った青編成の201系は青梅線を去ることになるのでした。
一方、中央線は高架化工事に伴い運用に余裕を持たせるため、201系が2本だけ暫定的に残されることになりました。
このため、線内運用は新型のE233系に統一され、直通列車に旧型の201系が残るという、今までと逆の現象が発生することになりました。
それから暫く201系の活躍は細々と続きますが、平成22年についに高架化工事が完了。線路設備の改良も行われて、中央線のスピードアップにより暫定使用されていた201系がついに不要となり、直通列車として27年間余り活躍した青梅線から去って行きました。
なお、27年間の活躍は青梅線では最長で、次点は同じ直通列車の先輩である101系(26年間)だったりします。


以降、E233系に統一て現在に至りますが、細かな変化として
・平成23年の東北大震災より青梅・五日市線の通年半自動運転開始
・青梅線用として製造された青458・658編成と青459・659編成が運用数の変化により中央線のH58、H59編成へコンバート
・列車削減により、6両編成の青670編成が南武線に転出。E233系8500番台に

今後の予定として、中央線のE233系にグリーン車が組み込まれる事になっており、青梅線にも導入される事になりました。
これによる改造に備えて209系1000番台が豊田電車区に転入しています。209系は基本的には中央線運用限定であるものの、事故や遅れ等で青梅線でも運用の予定との事で、先日青梅線でも試運転が行われています。
レアケースながらも青梅線でオレンジ帯の209系が見られることになりそうですねw

以上、青梅線を走った電車達の話でした。


青梅線を走った電車達(番外編)

今回は予告通り、電車からちょっと外れて、貨物列車や荷物電車に触れてみたいと思います。

こちらについては模型の方がフォローしきれていませんので、いくらか文章で済ませますが予めご了承下さいませ。


1.青梅線の貨物列車
かつて青梅線は、国有化のきっかけとなったとおり、石灰石輸送の重要な役割を担っていました。
奥多摩地区の鉱山から青梅線・南武線を経由して川崎地区の製鉄所に向けて専用の石灰石列車が運行された他、秩父方面の石灰石を八高線・青梅線・南武線を通じてセメント工場に運ぶ役割も担っていたようです。
また、逆方向では鶴見線の安善から南武線(武蔵野線)・青梅線立川~拝島間で米軍横田基地へ向けて燃料輸送も行っており、こちらについては現在も継続しています。
この他、一般貨物も運転されており、立川方面のみならず、八王子から八高線経由でも運転されていました。
このとおり、青梅線は貨物も重要な役割を担っていると言って良いでしょう。

さて、なんと言っても青梅線貨物の一番の主役は石灰石輸送列車でした。
石灰石列車の貨車と言えばホッパー車です。
買収直後の貨車については資料がありませんが、国有化後の貨車は石炭輸送用のホッパー車を改造したホキ150やホキ400が使用されました。昭和30年代には奥多摩工業の私有貨車であるホキ4200形が登場します。黒色に黄色帯を巻いたこの貨車は後に黒ホキとも呼ばれ、長期間活躍することになります。
ホキ4200形はその後、粉塵が沿線に舞うのを防止するためカバーが取り付けられ、ホキ34200と名前を変えながら活躍しました。
昭和42年にはホキ400形に代わりホキ2500形が登場します。

こちらは赤茶色の貨車で通称「赤ホキ」とも呼ばれ、長期間活躍することになります。赤ホキは後にほぼ同形で私有貨車のホキ9500形も登場。一部のホキ2500形はホキ9500形に編入されたりしています。なお、青梅線を走るホキ9500形の所有者は奥多摩工業のほか、日本石油輸送のものもありました。
赤ホキと黒ホキは役割が分かれていたようで、並行して使用されていました。
黒ホキはカバーが取り付けられられましたが、青梅線での赤ホキの搭載物は石灰石の中でも粒の大きい物が主体だった様で、特にカバーがかけられることもなく使用されました。(余談ですが、現在名古屋地区で使用している赤ホキにはカバーがついています。)
行き先も黒ホキは塩浜操(現在の川崎貨物駅)経由で神奈川臨海鉄道の水江町、赤ホキは浜川崎となっていたようです。
この他に生石灰輸送用に専用のコンテナ車チキ80000形もありました。青梅線内で見る分には生石灰専用のホッパーコンテナが常に載っており、コンテナ車に見えませんでしたw
チキ80000形は常に黒ホキ列車の川崎寄りに2~
3両連結されていたように思います。
生石灰の納入先は日本鋼管(現JFEスチール)でしたが、昭和63年に仕入先変更に伴い廃止となりました。
黒ホキは平成6年、赤ホキは平成10年まで活躍しましたが、氷川の石灰石鉱山の枯渇や、製鉄所で使用する石灰石の輸送コストが北海道産のものを船積みしたものに負けてしまったこと等により、石灰石輸送列車自体が廃止となってしまいました。なお、赤ホキの一部は矢橋工業に移籍し、一部が今でも名古屋地区で活躍しているようです。
ホキ9500形はさすがに老朽化しているため後輩格となるホキ2000形に転換が進んでいます。

青梅線の貨物列車のもう一つの柱と言えば通称「米タン列車」と呼ばれる米軍横田基地への燃料輸送列車です。こちらは現在も運行されています。
貨車の編成はタンク車を連ねた編成で、黒いタンク車の時代には軍番号が記載されているのが特徴となっていました。かつてはタキ3000やタキ38000等が使用されてきましたが、現在は日本石油輸送カラー(緑色)のタキ1000形が使用されており、胴体に「JP- 8」と書かれているのが特徴です。

さて、先にも書いたとおり青梅線には一般貨物列車も走っていました。
一般貨物列車に使用する貨車は日によって様々で、大抵は奥多摩地区のガソリンスタンド向けのタンク車や砂利運搬の無蓋車、稀に有蓋車も連結されていました。
一般貨物の需要は少なかった様で、大抵は機関車と車掌車の間に2~3両の雑多な貨車が連結されているのみで、日によっては機関車と車掌車だけの編成になっている姿も見られました。
下り列車では時折黒ホキや赤ホも1~2両連結されており、おそらく配給列車も兼ねていたと推測しています。
国鉄時代には、貨車の最後部には車掌車が連結されていました。
車掌車も色々使用していましたが、私の記憶にある昭和50年代以降はヨ6000形が多かった様に思います。ヨ5000形も時折見られましたが、次第にヨ8000形が増えて行きました。
有蓋車と合造になったワフ車も時折みかけましたが、荷室は荷物扱いをしていたかどうか不明です。あくまで私見ですが、石灰石列車に連結されているときはヨの代用だったのだと思います。
貨物列車のアクセントとなっていた車掌車ですが、貨物列車の車掌車に乗務する車掌の主な業務は列車防護でした。昭和61年に列車無線の整備により列車防護は運転手で可能となったことにより車掌は不要となり、車掌車諸共青梅線から姿を消していきました。

2.青梅線を走った機関車
青梅線は古くから電化されており、国有化以降は団体用等の臨時列車を除けば客車列車はありませんでした。よって、機関車は専ら貨物用となります。また、私鉄時代より電気機関車が使用されていました。
メインであった石灰石列車には、買収直後はいわゆる「社形」の機関車である、元南武のED34→ED27-10や元青梅のED36、奥多摩電鉄用として製造されたED37形が活躍していましたが、昭和24年に昭和6年生まれの省形電機ED16形が配備され、社形を追い出しながら勢力を強めて行きました。
元青梅電鉄や元奥多摩電鉄の機関車は早々に消え去りましたが、元南武鉄道のED27形は昭和40年代まで活躍したようです。

さて、やはり青梅線を代表する機関車と言えば老兵ED16形でしょう。
青梅線は適度に勾配があり、駅間が短く青梅以西では急な曲線も多いため、一緒走る旅客列車速度も出ません。従って、貨物列車がゆっくりでも旅客列車に与える影響は低く、速度は出ないながら牽引力のあるED16形には最適とも言える路線環境だったと言えるのではないかと思います。(元々ED16は勾配区間で使用されていました。)
元私鉄で軌道も強くないため大型機が入れない事も幸いし、ED16形は青梅線貨物の主として長年君臨しました。
拝島以東は燃料輸送のためか軌道も良く、大型機も乗り入れていました。
EF13形やEF15形の他、ED16形を大きくしたようなEF10形も活躍していました。
これらは石灰石列車の他、前出の燃料輸送列車も担当していました。
昭和50年代に入ると、拝島以東では老朽化が進んだEF10や元々戦時形だったEF13の代わりにEF60形やEF65形が使用されるようになりました。
一方、拝島以西では相変わらず軌道が脆弱であるためED16形の独壇場だったほか、直通運転の石灰石列車は拝島以東や南武線も含めてED16形が主役でした。ED16形は下手な蒸気機関車より古い旧型であるため一時期ED62形を代わりに入れる案もあったようですが、諸事情により消えたようです。
しかしながら、さすがに古豪ED16形も寄る年波には勝てず、拝島以西の軌道強化を行った上でいよいよ青梅線の山岳区間にもF級電機が投入されることになります。
昭和57年から、EF64形基本番台が中央線から、続けてEF64形1000番台が上越方面より登場。青梅線にも青い電機が目立つようになりました。
ED16形の代替はEF64形で行われ、EF60やEF65の活躍は拝島以東にとどまりました。なお、EF64形が揃うまでの間、一時期に旧型ながら戦後生まれのEF15形も立川に配置され、それまで拝島までだった同形式が拝島以西でも見られる様になりました。
これにより青梅線で30年以上の長期にわたり活躍したED16形も次第に数を減らし、昭和58年3月に引退しました。
ED16形引退後、まもなくEF15形も後を追うように姿を消し、いよいよ青梅線貨物はEF64形の牙城となります。そしてそのまま国鉄は分割民営化され、貨物列車はJR貨物に引き継がれるのでした。
分割民営化後は道路交通の発達や、輸送体系・需要の変化で貨物列車自体が衰退し、青梅線もその例に漏れず平成10年に石灰石輸送列車自体が廃止となります。戦前より長年続き、国有化の切っ掛けとなった石灰石輸送列車もついに終止符を打つことになった訳です。

その後の青梅線の貨物列車は米タン列車が唯一となり、機関車は主にEF64やEF64-1000の他、EF65形もとなりました。その後、EF65形は老朽化により退役が進み、EF64-1000は愛知中心の配置となったことから現在では「桃太郎」ことEF210形も活躍しています。

3.青梅線の荷物電車
青梅線ではかつて細々と荷物輸送も行われていました。
首都圏の他の通勤路線同様、通常の小荷物輸送は行われておらず、主に新聞輸送のための電車でした。
車両には品川電車区のクモニ13形が使用され、チョコレート色の短い電車が単行でトコトコと走っていました。
新宿で荷物を積み込んだあと、昼過ぎに中央線経由で青梅線の青梅まで運行していたようです。青梅からは夕方に回送で戻っていきました。
名脇役とも言える荷物電車でしたが、時代の趨勢からトラック輸送に転換され、昭和53年10月にクモハ40や72系の後を追うように青梅線から去っていきました。

以上、青梅線を走った電車達の番外編でした。

次回は本編最後、分割民営化後の青梅線の電車について書いてみます。

青梅線を走った電車たち(その2)

前回に引き続き、青梅線を走った電車について、歴史を追って軽く書き殴ってみますw


今回は103系の登場から・・・と行こうとおもったのですが、前回72・73系について書き漏らした事が結構あるので、少し時計を巻き戻し、旧型国電の晩年について少し深く書いてみます。

1.5 晩年の旧型国電
昭和40年代中盤より本格的に青梅線の主役となった72・73系ですが、以下のような特徴がありました。
・編成
主な編成は立川寄りから
クモハ73+サハ78+モハ72+クハ79
で、クモハは奇数ナンバー車、クハは偶数ナンバー車と生っていました。
付属編成は立川寄りから
クモハ73+クハ79またはクハ79+クモハ73で、後者の方が圧倒的に多かった様です。なお、クモハが青梅向きのモノは偶数ナンバーになっていて、クモハ73では珍しい後パンタ車もいました。

・各形式の特徴
クモハ73形はいわゆる「改造クモハ」が多く、昭和50年時点で500番台4両と、600番台8両、さらに0番台の近代化改造車が4両所属していました。
これらは下の写真のように前面の窓がHゴム固定で横長・縦長・横長に並ぶ特徴的なスタイルで、青梅線のナナサンの顔と言えばコレという感じでしたw
ちなみに、このうち大井工場改造の73137と73207は窓上の手摺が長いプチ変形車でした。
ロクサンの面影の濃い原形車は比較的少数派で、わずか4両となっていました。
8両いた600番台のうち3両は偶数向き車で、後部にパンタグラフがあるのが特徴でした。

クハ79形はクモハとは対照的に原形車が比較的多く、8両がロクサン由来の原形車でした。
多数派は300番台で、10両所属していました。中でも中央線から移ってきた元“山ゲタ“車が数両おり、サボ受けがついていて異彩を放っていました。
一方で101系とよく似た美しい920番台はわずか1両だけの存在でした。
左から原形、300番台、920番台です。原形車の中には前面窓をHゴムにしたものもいました。
300番台は窓をアルミサッシ2段としたA更新工事車が多かった様ですが、原形車は昔ながらの3段窓が残っていました。

モハ72形は前回も書いたとおり、1両を除き全車が500番台でした。残りの1両は元山ゲタの72850で、低い屋根が特徴となっていました。
72850を含む全車がA更新工事車で、下の写真の様にアルミサッシ化しているのが特徴でした。

サハ78形はモハ72同様A更新車が多く見られましたが、原形車もそこそこ見られた様です。特徴的な車両としては、モハの電装解除車(500番台)が3両、非電装車(300番台)が1両いました。

マスコット的存在となっていたクモハ40形は昭和50年時点で7両で、このうち40023は早い時点で宇部線に移っています。
最後まで残ったのは平妻(写真左)が40033、40039の2両、他は半流形(写真右)で、40061、40071、40072、40073でした。
平妻の40033と40039は製造ロットの差違で運転台の大きさが異なっていて、運転台後ろの窓配置が異なっていました。
このうち40071を除いて車内が薄緑色になっていたほか、全車の照明が蛍光灯になっていました。

・所属
昭和46年1月までは青梅電車区所属、それ以降は豊田電車区となりました。なお、中央線から乗り入れてくる101系は武蔵小金井電車区のものでした。ホーム長の関係で牛浜以西は全線とも(2020/10訂正)7両編成までとなっており、分割可能な編成が投入されました。(武蔵小金井、立川、拝島のいずれかで3両編成を切り離していたと記憶していますが、うろ覚えなので間違いかもですw → 2020/10追記。コメントをいただきまして、武蔵小金井分割が正解でした。)このため、高尾以西乗り入れ車が共通運用されており、パンタグラフ部分が低屋根の800番台車も見られました。

2.103系の時代
昭和51年。京浜東北線のATC化に伴い、同線にATC付き先頭車および冷房車が投入され、青梅線には玉突きで試作車を含む非冷房の103系初期形が転入してきました。


青梅線のカラーは中央線から乗り入れてくる101系と同じオレンジ色になりましたが、転入当初は塗装変更が間に合わず、京浜東北線の水色のまま活躍する車両が見られました。
これに伴い72・73系は2両編成が早々に離脱。4両編成の一部はクモハ40と5両固定編成的に使われる様になり、日中にもクモハ40が活躍する姿も見られる様になりましたが、元々本数の少ない青梅線では置き換えにかかる時間もそう長くはなく、昭和53年3月に置き換えが完了。さよなら運転を最後に荷物電車を除く旧型国電が青梅線から撤退したのでした。
一方で、中央線乗り入れの101系は相変わらずで、似たようなスタイルの103系初期車に埋もれて目立たない存在となっていきました。


旧型国電の置き換えが完了した後も、沿線住民の増加に対応して103系の増備が進みます。
昭和56年、中央線に201系量産車が投入されると、押し出されるようにして冷房付の103系が転入してきました。これにより、青梅線にも漸く待望の冷房車が登場したわけです。この頃から次第に既存の青梅線の103系初期車にも冷房改造が行われるようになりますが、若番車は非冷房のままのものが多かった様です。
昭和57年には牛浜~青梅間のホーム延長が行われて、10両編成が青梅まで入れる様になりました。これにより、約20年間101系が務めた東京直通列車に201系が投入され、ようやく東京直通列車も世代交代が始まることになりました。


なお、短期間ながら中央線にいた103系の新製冷房車も東京直通列車に入ることがありました。

この頃の編成は立川寄りから
クモハ103+モハ102+サハ103+クハ103
または
クハ103+モハ103+モハ102+クハ103
が基本となっており、増結や乗客の少ない時間帯用に3両編成の
クモハ103+モハ102+クハ103
朝ラッシュ時用に5両編成の
クモハ103+モハ102+モハ103+モハ102+クハ103
がありました。
これらを組み合わせて、3両、4両、5両、7両、8両が柔軟に組まれて運用されていました。
特徴としては、クモハの入った編成の青梅寄りのクハは500番台が多かったのも特徴で、両端がクハの編成には試作車の900番台クハやモハのトップナンバーも見られました。
東京直通は上記のとおり、7両から10両になり、101系の10両編成も見られる様になりました。
中央線の201系はその後順調に数を増やし続け、昭和60年までに103系と101系を放逐しました。これにより東京直通は全て201系となり、101系は青梅線では主役となることなくひっそりと去っていきました。

さて、増備も一段落して落ち着いたかと思われた103系ですが、昭和61年に変化が現れます。
この頃、青梅線を受け持つ豊田電車区では武蔵野線も受け持っていましたが、昭和61年3月改正で武蔵野線向けの6両編成が青梅・五日市線と共通運用になりました。
この頃は武蔵野線の101系が103系への置き換え途上であり、他線から転入してきたばかりの黄色やウグイス色、エメラルドグリーンの103系が一時的にみられるようになったほか、これまで線内列車には見られなかったユニットサッシの新製冷房車も登場した一方、一旦は消滅した101系も役割は異にしながら復活しました。
もっとも101系は置き換え末期となっており、同年10月に再度去っていきました。
この頃から5両編成や3両編成は解消され、やがて青梅線の線内列車でも6+4の10両編成が運転されることになります。
こうして青梅線は103系と201系に統一されつつ
、分割民営化を迎えるのでした。


長くなったので今回はここまで。

次回は少し脱線し、番外編として青梅線のもう一つの主役だった貨物列車と名脇役だった荷物電車について書いてみます。

青梅線を走った電車たち(その1)

いつかの記事にも書きましたが、自分は幼少の頃~中学2年にかけて青梅線沿線に住んでいました。

青梅線は東青梅まではひたすら住宅地の中を走る取り立てて沿線風景に特徴のない路線ですが、東青梅以西の単線区間に入ると一気に山が迫ってきてローカル線ムードが高まります。
日向和田より先では20パーミルの勾配や急カーブが連続する山岳路線の趣があり、御嶽付近では渓谷沿いを走り、沿線風景も楽しめる路線になっています。
そんな訳で、同線にはそれなりに思い入れがあったりしますので、模型の収集テーマの一つではありました。

さて、先日のE233系入線で、ふと歴代の青梅線の電車がほぼフォローできたことに気が付きましたw

というわけで、最近入線記事ばかりだったこともあるので、久々に特集記事で、青梅線を走った電車について時代を追いながら軽く書き殴ってみたいと思います。

なお、対象は国鉄買収後で、定期運用で旅客営業したものとします。

1.旧型国電の時代
元々青梅線は私鉄で、青梅鉄道→青梅電気鉄道が前身でした。
青梅線では石灰石輸送や砂利輸送が行われており、特に石灰石は製鉄に使用する重要物資であることから、戦時中の昭和19年に国に買収され国有となりました。
なお、青梅電気鉄道時代に開業していたのは御嶽までで、御嶽~氷川(現在の奥多摩)間は奥多摩電気鉄道として建設が行われ、開通と同時に国有化されています。

さて、買収直後については青梅電気鉄道から引き継いだ社形(青梅電気鉄道オリジナルの電車)を使用していたものの、戦後まもなくこれらは淘汰され、17m級の国電が山手線や中央線等から転入し青梅線の主力となります。 

この時代の青梅線はクモハ11+クハ16の2両を基本に2両編成や2+2の4両編成が活躍したほか、増結用に両運転台で20m級のクモハ40も活躍していました。
朝夕ラッシュ時にはクモハ40+2+2の5両編成も見られました。


また、時期は不明ですが40系の制御車であるクハ55も転入しており、時折クモハ11+クハ55というクモハとクハで長さの違う組み合わせも見られた様です。

クモハ11やクハ16は30系、31系、50系など種類豊富で、ごちゃ混ぜに運用したほか、稀にクモハ12がいた事もあったようです。

戦前形ひしめく青梅線でしたが、昭和30年代には戦後形大型で4扉の72系も入ってきます。しかしながらクモハ73形が少数見られた程度でした。

ここでこれらのサイドビューを比べてみましょう。
17m3扉のクモハ11(30系、31系、50系等。写真は50系)

20m3扉のクモハ40(40系)

20m4扉のクハ79(72・73系)

やがて朝夕には東京直通列車が設定されるようになり、昭和34年からは新性能でオレンジ色の101系も見られる様になります。ただし、101系は東京直通のみで、あくまでお客さん的な立場であり、古色蒼然とした電車の中で「掃き溜めに鶴」の如き存在となっていました。

昭和40年代に入ると、京浜東北線や常磐線に103系が投入され、そこから玉突きで72・73系が転入してきます。

それまでは戦前形電車が闊歩する中でクモハ73が細々と活躍するだけの、脇役だった72・73系ですが、転入でクモハ73のみならず、モハ72やサハ78、クハ79が押し寄せてきて一気に主役となりました。
一方で、それまで頑張っていた17m車やクハ55は老朽化により廃車になったり、状態の良いものは南武支線や鶴見線、宇部線などに転属して行きました。
戦前形が一気に減った青梅線でしたが、クモハ40だけは増結用でしぶとく残り、青梅線のマスコット的な存在となっていきます。

72・73系が増えると、それまで2両編成中心であったのが、クモハ+サハ+モハ+クハの
4両編成が基本となるように変わりました。
2両編成もクモハ11+クハ16から、クモハ73+クハ79に変わりました。
編成も基本の4両を中心に、クモハ40を増結した5両のほか、クモハ+クハを連結した6両編成も見られる様になりました。
また、101系については中央線直通列車が昼間にも設定されて日中にも見られる様になったほか、付属の3両編成による青梅線内のアルバイト運用も見られる様になりました。

ところで、この頃からクモハ40やモハ72、サハ78、クハ79の一部は体質改善工事やA更新工事が行われ、室内灯の蛍光灯化や窓のアルミサッシ化、室内色の薄緑色化等が行われています。これにより、それまでニス塗り白熱灯照明の前近代的な室内から一気に近代化されたわけです。また、転入してきた72・73系の中には「近代化改造車」やクハ79形920番台も含まれており、これらは旧型ながらも窓上下の補強板がなく窓はアルミサッシとなり、近代的な外観になっていました。もちろん車内は101系等と同等のものになっていて、新性能電車と遜色ないものになっていました。

余談ですが、青梅線に入ってきたモハ72形は全車が500番台でした。
同番台区分はNゲージでは完成品が存在しないことから、この時代の青梅線をNゲージで再現するのは、ハードルが高くなっていますw

さて、この時代の技術革新の波は早く、約20年間古色蒼然とした戦前形中心のラインナップだったものが、昭和40年代後半に戦後形72・73系が青梅線の主役になったと思いきや、72・73系は昭和50年代に入った早々に早くも追われる立場となっていきます。
昭和51年、ついに青梅線にも103系が登場し、新性能化が行われて行くことになりました。


とりあえず今回はここまで。
次回は新性能化後からの話です。

Tomixの209系2200番台をいまさら整備した

随分前にダイジェスト版でお伝えした後、長期間放置していたTomixの209系2200番台。

入線整備中に身辺が忙しくなったりモチベーションが下がったりで約1年放置していましたが、ようやく入線整備の続きをしました。

209系2200番台は南武線のみに6両編成3本だけ存在した形式番台区分で、その活躍範囲も限定的であることからか限定販売品となっています。

さて、製品を見てみましょう。


2200番台の特徴である東急車両製の車体や、更新工事により0番台と異なる床下機器などが再現されています。さすがにKATOと2大メーカーを張るだけのことはあります。

屋根上のアンテナや信号煙管、避雷器は別パーツになっています。このあたりは以前入線してきた103系と同じですねw
103系での経験を踏まえて先端をカッターで整形してから差し込んだら比較的上手く取り付けられました。

ナンバーはインレタ式。
そのほか、号車番号や車椅子・ベビーカーのマーク、弱冷房車表示もインレタ式になってます。
国鉄形と違って特にフォントが大きいと言うこともないのでそのまま使えます。
しかし、残念ながら所属表記やエンド表記がありません。このあたりは相変わらずのTomixの残念仕様ですね。

と、いうわけで、サードパーティーのインレタを買ってきましたw


また、前面の方向幕は交換式になっていますが、側面の行き先表示ステッカーも相変わらずありません。
こちらはジオマトリックスのステッカーを買いました。このステッカーは205系が入線してきた時も使えそうです。

と言うわけで、一通り付けてみました。


前面には自作の編成番号札もつけてみました。
南武線でE233系に混じって最後まで活躍した「53」です。

ところで、この209系、実物は白熱灯のヘッドライトなのですが、模型はなぜか白色のLEDの色のままになってます。これではHIDみたいですねw

と言うわけで、オレンジ色のマジックでセロテープを塗ったものをオレンジフィルターにして電球色にしてみました。なかなかうまく行きましたねw

ところで、我が家では最近方針転換を行い、JR東の電車にはドアステッカー・優先席ステッカーを付けるようにしており、209系2200番台もその対象としました。

南武線209系のドアステッカーは同線の205系大窓同様、首都圏のJR東日本の共通である駆け込み防止ステッカーの下に、中央線と南武線のみに見られた円形の指挟み注意ステッカー、さらに横浜支社特有の足元注意ステッカーと、窓に3枚貼られて賑やかなものになっていました。
というわけで、
こんな風になりました。かなーり賑やかな感じですねw
最晩年となった2015年には駆け込み防止ステッカーが裏貼り式となりましたが、インレタの都合上それ以前の姿にしています。

優先席ステッカーは裏貼り式のものを使いました。実車同様、スモークガラスで薄暗く見える様子を再現しています。

6両分終わりました。
一年越しで漸く運転会に持って行けそうですw

最後に209系2200番台について解説しましょう。

209系は平成5年に登場したJR東日本の通勤型電車です。
平成4年に、JR東日本はこれまでの車両設計思想を改め、製造工程や機器を一新した試作形式901系を登場させました。「価格・重量・寿命半分」をスローガンとして製造された電車は技術的にブレークスルーをもたらし、その後の国内の電車の車両設計に大きな影響を及ぼしています。
901系はそれぞれテーマの異なる試みにより3編成製造されて1年間試用した後、その量産形として登場したのが209系です。901系も量産化改造が行われ、209系に3編成がそれぞれ900、910、920番台として編入されました。
209系はその後、京浜東北線に集中投入されたほか、少数が南武線と八高・川越線に投入されました。
(その後、耐用年数を超えつつあった103系置き換えのため、幅広車体の950番台と500番台が登場し、中央・総武緩行線や京葉線にも投入されました。)

さて、ある意味極限設計とも言える209系0番台は「寿命半分」の言葉どおり、製造から15年程たった頃から機器の劣化がみられたため、新形式のE233系への置き換えが始まります。
しかしながら、機器を除く足まわりや、車体についても使用不能な程に劣化した訳ではなかったためか、機器を更新の上、短編成化して国鉄形の残る房総地区へ転用する事になりました。
同じ頃に南武線でも初期に投入された0番台の置き換えと、仙石線の103系置き換えのための205系捻出用、さらに増発用として計3本が用意されることになりました。
このため、短編成化で余剰となるサハは殆ど廃車になったものの、クハとモハについては大半が延命する事になった訳です。

さて、これらの更新車のうち南武線向けに平成21年に登場したのが、今回我が家に入線した2200番台となります。


改造内容は、主要な所ではVVVFインバータ装置がE233系同等のIGBTのものに変更された他、劣化した機器の取り替え、制御伝送装置の変更、ATSや補助電源の二重化、方向幕のLED化等が行われています。
上記のとおり、6両編成3本のみの少数派となりました。
2200番台はその後、南武線向けのE233系8000番台投入後まで活躍しましたが、平成29年までに全て置き換えられ、2本が廃車となりました。
最後まで残ったナハ53編成もそのまま離脱かと思われましたが、房総地区のジョイフルトレイントレイン「B.B.BASE」に改造され、仲間の209系2000、2100番台と共に活躍しています。

以上、解説でした。

余談ですが、自分は実車には何度か乗ったことがあります。
数が少ないのでなかなか当たりませんでしたが・・・。最初に乗ったときは209系なのにE233系の様な「シャーッ」という変調音が違和感ありありでしたw

最後に我が家の南武線並び
だいぶ充実してきましたが、長年主役だった101系と205系がまだですねぇ。


ED75が増えました

今年初の投稿です。

当面スローペースでの投稿になりますが、今年もよろしくお願いします。

さて、今更ではありますが、我が家の車両は無秩序に増備をしているように見せかけて、一応テーマらしきものはあります。

その内の柱の一つが客車急行なのですが、東北方面の客車急行を再現するのに不可欠な機関車と言えばやはりED75になります。

我が家には既に所謂M型と呼ばれる基本番台車が2両在籍していましたが、奥羽本線経由の列車に必須となる700番台が宿題として残っていました。
KATOの現行製品が出る数年前にTomix製品を買おうとして買いそびれ(当時はTomix製品の方が遥かに良くできていたのです。)、そのまま時間が経っていたのですが、今年の年始に自分が普段よく使っている模型屋でKATO製品が特価セール品になっていたので、漸く入線となりました。
我が家で3両目のED75にして、初のKATO製です。

製品ままの状態。
KATO製品は約2年前にフルリニューアルされてスケールに忠実となり、今時のKATO製品らしい精密なディテールとなりました。
Tomix製品と比べても引けを取りません。
ナンバーは選択式。KATOナックルカプラーとジャンパケーブルが付属品として付いています。
屋根の碍子は白で、1970~80年代頃の設定になっています。うちの客車急行を牽かせるにはピッタリですねw

早速入線整備です。さくっと終わりましたw
整備メニューは
・ナンバー取り付け
・カプラーの交換
・付属のジャンパケーブル取り付け
・区名札貼り付け
です。まぁ簡単ですねw

なお、製品にはヘッドマークとして「あけぼの」と「日本海」が付いています。
うちでは両方とも殆ど使いませんけどねw

ナンバーは東芝製の717番を選択しました。
区名札は秋田所属の「秋」にしています。
実車は秋田に配置されてからひたすら奥羽本線、羽越本線で活躍した後、分割民営化付近でED79 103に改造されています。

早速並べてみました。
Tomix製の0番台とKATO製の700番台。
どちらも甲乙付けがたい出来の良さです。
KATOの方が後発である分、ジャンパケーブルが付いていて若干リードと言うところでしょうか。

屋根上は大きく異なります。複雑なTomixの0番台に対し、KATOの700番台はスッキリしています。詳しくは後述しますが、これは実車の差異に基づくものです。

ここで恒例の実車解説と行きましょう。
ED75形は50Hzの交流電化区間用の電気機関車で、昭和38年の登場です。
東北本線で活躍していたED71をベースに様々な改良が加えられ、常磐線水戸~平(現いわき)間の電化に合わせて登場しました。
勾配区間の多い東北地区で重量貨物列車を牽くため、ED71同様に重連総括制御を可能とし、貫通扉がついて同時期に登場したEF64形と同じ「貫通扉付の国鉄機関車顔」になりました。
整流器にはシリコン整流器を使用し、マグアンプと低圧タップを使用した制御方式としています。
駆動系はED73形までの交流機関車で使用していたクイル駆動方式では保守上で様々な問題を起こしていた事から、ED75ではベーシックなツリカケ駆動方式となり、モーターも国鉄機関車汎用とも言えるMT52となっています。
勾配の多い東北地区で使用するためかギア比は4.44と牽引力重視の低速寄りで、最高速度は100km/hでした。
ここまでED75形共通の解説をしましたが、ここから700番台の解説に入ります。

700番台は昭和46年の奥羽本線秋田~青森間の電化に伴い登場したグループです。
ED75の中では最後発のグループで、同区間は積雪が多く海沿い区間も多いため、屋上にあった変電機器を小型化し、車体内に収めています。
このため0番台や1000番台等に比べてスッキリした屋根上となりました。
パンタグラフには積雪に強い下枠交差式のPS103が使用され、0番台と比べてかなり垢抜けた姿となっています。
なお、20系のブルートレイン(日本海、あけぼの)を牽引しましたが、先に登場した1000番台に搭載された20系用の増圧ブレーキ装置は搭載されていません。(貨車用のものは後期の一部が搭載していました。)
もっとも、殆どの区間で路線自体の最高速度が95km/h以下だったので問題無かったようです。


700番台は当初全機が秋田に配置され、奥羽本線秋田以北および羽越本線で活躍します。
前出のとおり寝台特急「日本海」「あけぼの」のほか、貨物列車から急行・普通列車まで幅く活躍しました。
奥羽本線の電化延伸に伴い、仲間を増やしながら活躍区間も南に伸び、米沢まで顔を出すようになりました。
登場以来ひたすら奥羽本線・羽越本線を走ってきた700番台ですが、昭和55年に転機が訪れます。
EF81の運用区間拡大と、奥羽本線での客車列車・貨物列車減少に伴い、老朽化が進んだED71を交換するため一部が福島に転属となりました。これに伴い運用区間に東北本線が加わり、南は黒磯まで顔を出すようになりました。
このうち707,711,751,766,767号機は欧風客車オリエントサルーンと意匠を合わせた塗装に変更されたりしています。
分割民営化直前の昭和61年に34両が青函トンネル用のED79に改造されました。
分割民営化後はJR東日本に引き継がれて活躍しましたが、貨物貸出や客車列車の減少に伴い廃車が始まります。一方で、仙山線や磐越西線が軌道強化され、これらの路線でも見られる様になりました。また、「北斗星」や「カシオペア」のEF81が故障した際にピンチヒッターとして起用されたこともありました。
現在も少数が残存しており、主に工臨や配給輸送で活躍するとともに、現存するED75形では最後の存在となっています。

ちなみに、我が家では急行「津軽」「きたぐに」をメインとして客車鈍行や貨物列車を牽かせる予定です。実車同様幅く使えそうですw

最後に我が家の交流機関車並び
いやぁ、かなり増えてきましたねw

元祖E233系入線

今年に入って購入計画に入りつつも資金繰りの都合で購入を見送っていたものがいくつかありました。

その中の一つがオレンジ帯のE233系。

E233系の元祖とも言える中央線快速でお馴染みの0番台車です。


今年の2月にKATOから発売になった、H編成こと、6+4の分割編成。
そのうちの4両編成の在庫が消えていたのですが、ふとある時、我が家から近いimonで在庫がポツンと復活しているのをたまたま見つけました。

何やら運命的なものを感じざるを得ず、購入と相成りました。
予算の都合で6両は別途購入予定です。

ところで、KATOのE233系中央線4両編成セットは6両編成の基本セットに連結して使うのを前提にしているため、動力車がなく、東京寄り先頭車(クハE233-500)にライトユニットが付いていません。
そこで、ライトユニットとスイッチ板も購入してライトが点灯できるようにしました。
動力は当面、かつて購入した南武線のE233系と振り替えて使います。
そのうち動力ユニットも入手したいところですね。

製品ままの状態。
屋根アンテナはユーザー取付になってます。
交換用の行き先パーツも付いてます。
E233系0番台は行き先も豊富ですので、いずれ予備パーツとサードパーティーのステッカーも買って遊べるようにしたいところです。

早速入線整備します。
今回は付属のアンテナと、クハE233のライトユニット取付。
この他に優先席表示とドアステッカーにも挑戦します。

アンテナとライトユニットを取付ました。
これで4両でも運用できるようになりますw
10両の時は編成中間に入るので、ライトはスイッチ付で消灯も可能です。


ドアステッカーと優先席表示も取り付けました。これで一気に今時の首都圏の電車らしくなりますw
ステッカーはいずれも裏貼り式のものを使いました。軽くグリーンになったガラスの奥に貼られた姿が再現できました。

ところで、ついでなので先に入線していた南武線のE233系にもドアステッカーを付けてみました。
南武線のは足元注意表示も付いた横浜支社仕様です。
ドアステッカーはなかなか効果ありますね。

これにて運転整備は完了です。

早速運転会デビューも果たしてきました。

配給列車で登場し

4両で走行しましたw
そのうち「奥多摩」などの行き先も用意したいところですなw

最後にE233系0番台について軽く解説しましょう。

E233系0番台は老朽化してきた201系を置き換えるべく、2006年に登場した、中央・青梅線・五日市線向けの通勤形電車です。
コスト・重量・寿命を従来の半分にするコンセプトで生まれた、いわゆる「走るんです」と呼ばれた209系から、E231系を通じて使用実績を反映し、大元の設計は受け継ぎつつも、耐久性や寿命は現実的なものとなっており、重量は205系よりも重くなっています。
「故障に強い」のを目的として機器の冗長化を図るなど、コスト重視だった209系とは一線を画しています。
モーターは出力140kwのMT75で、常時過負荷使用を前提としたE231系と比べて余裕のあるものになっています。
ギア比も6.06と低めにとってあり、高速安定性と回転数を抑えることで騒音の低下をはかっています。
車内は山手線のE231系500番台で採用されたドア上モニタを本格採用し、座席もE231系までで「固い」とされたものから、クッションを適度に持たせたものになりました。
バランスの良さと手堅い設計のためか、あれよあれよと仲間を増やし、気が付けば約3200両という巨大勢力になりました。
これは過去最大の103系と0系新幹線に次ぐもので、首都圏の「顔」といって良いでしょう。
なお、南武線のE233系8000番台で一度打ち止めとなったものの、その後東海道線向けの5両編成と、常磐緩行線向けの10両が増備され、さらに中央線向けにグリーン車が製造されることになったため、将来的に3300両を超え、車両数で新幹線0系を抜くことになっています。


さて、中央線向けの0番台は201系を置き換えつつ、ストレートの10両編成(T編成)42本と、青梅・五日市・八高・富士急各線に乗り入れるため4+6両の分割編成(H編成)が15本用意されたほか、青梅・五日市線内用(青編成)に4両編成10本と6両編成13本が用意されました。その後需給の関係から、青編成のうち4両・6両編成が2本ずつH編成にコンバートされています。
また、2016年にはダイヤの見直しにより青編成の6両編成1本を捻出し、南武線向けにコンバート。8500番台に改造しています。
0番台の特徴として、加速度が従来より高い3.0km/h/sとなっており、地上設備の改良と合わせて中央線の高速化に貢献しました。また、半自動ドアスイッチを設けており、青梅・五日市線や中央線高尾以西で半自動ドア扱いをしています。
現在も中央線快速の主力として活躍中で、今後はグリーン車を挟んで活躍することになっています。

最後に歴代中央線特別快速並び。
ここまでくると中央線では地味だった103系の特別快速も欲しくなりますねw

小田急1000形入線

ご無沙汰してます。

仕事の方が忙しかったりキツかったりでブログを書くどころか模型を触る気力も無かったのですが、ようやく落ち着いてきたので久々に投下してみます。

予期せぬ出来事から半ば衝動的に小田急1000形が入線してきました。

実は小田急1000形は実車が昔から好きで、GMキットが登場した頃から欲しいと思っていたので、20と数年来の夢をようやく果たしたということになったりします。

しかしながら、このタイミングで入線してきたのは我ながら全くの予想外ですw
購入したのは10両固定編成。
GMから発売されていた1091編成です。
菱形パンタを積んだバリバリの地下鉄直通現役時代。

今も元気な小田急1000形ですが、この頃の1000形は第一の黄金期とも言える時代の姿と言えるでしょうか。


製品ままの小田急1000形です。
GMの小田急1000形はキットの頃から比較的造形が良かったのですが、数年前に発売された完成品はなかなか良い造形をしています。
特徴的な手すりや屋根上の無線アンテナはユーザ取り付けになっています。

手すりとアンテナを取り付けました。細かいパーツなので取り付けには苦労しましたが、効果は抜群です。
カッコイイですね!

行き先は「多摩急行 唐木田」になっています。2000年頃に千代田線からの乗り入れ列車が多摩線に入る様になると共に、本数が少なく、半ば日陰者だった小田急の乗り入れ列車が一気に増えた時期のものでもありました。

サイドビューです。
原形の菱形パンタです。実車は2002年頃からシングルアームパンタに交換されています。
窓高さの揃った姿はスマートな1000形の大きな特徴です。
当時の他社の電車が戸袋窓を廃止しているなかで、戸袋窓付きなのがいかにも当時の小田急らしいところですが、戸袋窓を含めて高さが揃っているのは当時の小田急初のステンレスカーを作るにあたって東急車輌が「カッコイイステンレスカーを作る」と頑張ったという逸話があったという噂があったりします。

行き先については付属のステッカーもなく、窪みがモールドされているだけなのが残念なところ。

さて・・・


全体的に出来の良いGM小田急1000形ですが、ライトユニットはこんなになってます。
行き先は印刷。ユニットと一体になってますが、これでは点灯しません。

行き先や種別の豊富な小田急1000形なので、交換かつ点灯可能な形にしてみます。


交換用の行き先はステッカーを用意しました。
GMからもステッカーは別売されていますが、現行の種別のバックがカラーになっているもの。2000年頃の黒地に色文字スタイルのものはないため、あえて購入しました。


何やら不格好ですが、こんな感じにしました。
透明のアクリル棒で裏の押さえを作り、透明プラ板に方向幕のシールを貼ったものにしました。
実は種別、方向幕、運行番号を別々に変えられる様にしようかと思ったのですが、スペースと強度の都合で断念しました。


とりあえず練習で「急行 新宿」です。
本命は当時の地下鉄直通列車で見られた準急の本厚木行きですが、一旦試作でこれにしています。

さて、側面も寂しいので少し手を入れます。
方向幕はかつて購入した小田急2600形用の余りを使用します。
ちょうどお誂え向きに「準急 本厚木」があるのでこれを使います。
前面は交換可能ですが、こちらは固定で目をつぶりますw

小田急らしさをアップするため、ドアにもステッカーをつけてやります。
ドアステッカーはジオマトリックスのインレタを使用しました。号車番号用に色々セットになったインレタも使用します。
本当はこれのシルバーシートを使おうかとおもったのですが、10両分ないので断念。別のモノを使うことにしました。

シルバーシート表記は経費節減を兼ねてお手軽にレボリューションファクトリーのステッカーを使います。
車体側面に貼る小さなシルバーシートマークは本来文字入りですが、雰囲気重視で妥協しました。

諸々ステッカーをは貼ってやります。
なかなかいい感じになったと思います。
インレタよりステッカーの方が楽ですねw

「準急 本厚木」の行き先も入れました。
これで立派な?地下鉄直通の小田急1000形ですw
千代田線内をけたたましいインバータサウンドを立てながら走っていた頃の姿を再現できました。

最後に、恒例の実車解説と行きましょう。

小田急1000形は昭和63年にデビューした通勤形電車で、地下鉄直通のみならず幅広く使用する事を前提に製造されました。

小田急としては初のステンレスカーですが、それまでのケイプアイボリーの車体にロイヤルブルーのイメージに近づけるべく、全面的にダルフィニッシュとして光沢を抑えた柔らかい印象となっています。
前面の意匠は先代の地下鉄直通車9000形の流れを受け継ぐものとなっています。
屋根は雨樋の目立たない張り上げ構造で、それまでのステンレスカーのイメージを一新したものになっており、バブル景気の頃の設計らしい丁寧な意匠になっています。

スマートなデザインが光る一方で、酷くなるラッシュに対応すべく、途中で2m幅のスーパーワイドドアを装備したグループが登場したのも大きな特徴です。
荷物車のような大きなドアを装備したその姿はさすがに不格好と言えるものでしたが、このグループでは車内モニタや自動窓など様々な試みが取り入れられ、その後2000形や3000形初期車に昇華していくことになります。
なお、さすがに2mのドアは大きすぎてかえって乗降に支障をきたすことになったため、2000形では1600mm幅となり、1000形ワイドドア車もこれに合わせて開口幅が1600mmに改められました。
これに合わせて室内レイアウトは改装されたものの、ドア外観は2m幅のままとなっており、ドアが開いた時は外から見ると200mmの引き残しが有るように見えるのが特徴となっています。
なお、ワイドドア車はさすがに地下鉄線内には乗り入れず、小田急線内のほか、一時期は箱根登山線の箱根湯本まで足を延ばす姿も見られました。

足まわりはアールストームリンク式の台車にWN駆動という小田急の伝統を押さえつつも、2600形で試験していたVVVFインバータ制御を初めて本格的に採用。
175kwの当時としては強力な電動機もあいまってMT比を1:1としつつも、地下鉄線内で要求される3.3km/h/sの加速度を満たしつつ、高速走行も可能なオールパーパスな仕様になってます。

VVVFインバータ制御の黎明期の車両であるので、インバータはGTO素子を使った三菱製の1C4Mの大きなもので、派手な変調音を立てるのが特徴的です。
後年ソフト変更で純電気ブレーキにも対応。これに伴い変調音が変わり、低速域は三菱GTO後期車のテンションを低くしたような不思議な音を立てるようになりました。

昭和63年から平成4年まで総勢196両が製造され最大勢力となり、小田急通勤形の中心的な存在となりました。なお、後に最大勢力の座は後輩の3000形に譲り渡しています。
ちなみに、1000形は当時絶滅しつつあった中型の2400形に引導を渡しているものの、その後はひたすら車両増備に充てられています。
近年は新車の導入と共に旧型車の置き換えが行われる事が多い中、当時の小田急はまだ伸びシロが有ったことを物語っていると言えるでしょうか。


さて、デビュー後の1000形は4・6・8・10両固定編成が用意され、大半は4+6の編成で、地下鉄直通のほか、各駅停車から快速急行まで柔軟に運用されました。
なお、地下鉄直通は9000形から約2年で1000形に置き換えられ、9000形は地上専用となりました。
8両固定編成は僅か一本だけのレア物で、線内準急や各駅停車中心に運用されています。
10両固定編成は主に千代田線乗り入れに使用され、登場後暫くは小田急から地下鉄への乗り入れがごく僅かだったこともあって、日中は千代田線内に籠もっていた事もしばしばでした。
2000年から千代田乗り入れ列車の本数が増加し、小田急線内での活躍も増えて行きました。
2002年からは乗り入れ列車の大半が多摩線の唐木田に行くようになり、営団(当時)車と共に多摩線でも見られるようになります。
2001年頃からパンタグラフが順次シングルアームの物に変更され、2004年頃には全てシングルアームパンタとなったようです。

箱根湯本から綾瀬まで幅広く活躍してきた1000形ですが、2007年に地下鉄直通車の後継者となる二代目4000形が登場。4+6の編成が乗り入れから撤退します。その後も10両固定編成は4000形に混じって地下鉄直通運用で頑張っていましたが、2010年に4000形増備によりついに乗り入れ運用から外れ、全車が地上専用となりました。

さて、登場から25年以上経った2014年。すっかりベテランとなった1000形ですが、またもや転機が訪れます。
1000形に対して大幅なリニューアル工事が実施されることになりました。
世界初となるフルSiC素子適用のVVVFインバータ装置を使用して走行機器をリニューアル。モーターも新鋭の全密閉式の物に交換し、出力も190kwにパワーアップされました。
リニューアルは走行機器だけではありません。室内は意匠が変更されただけでなく、LCDモニタが装備された上、照明はLEDに。車体外観は大幅なスタイル変更こそないものの、方向幕はフルカラーLEDを使用した最新型の4000形同等のものにアップデートされたほか、帯の色が4000形と同じインペリアルブルーに変更。ヘッドライトは登場時の角形を保ちつつも高輝度白色LEDとなり、原形を留めつつも新旧入り混じった絶妙な姿となりました。
さらに、分割運用が減った事を受けて4+6両の編成の一部は中間の運転台を撤去する魔改造をうけ、リニューアルと共に10両固定編成に生まれ変わっています。

現在は登場後30年となりますが未だに廃車もなく、リニューアル工事も進んで今後まだまだ長きに渡って活躍が期待できそうです。


さて、思わぬタイミングで入線したGMの小田急1000形ですが、正直思った以上に惚れ込んでおりますw
小田急ロゴが付いてシングルアームパンタを付けた現行仕様も欲しいところ。

フルリニューアル車も模型化されたら手がでてしまいそうですw

最後に、運転会で仲間と持ち寄った小田急車並び。いやぁ、小田急って楽しいですねww

スカイブルーの郵便荷物車現る

先日入線したKATOの119系に付いてたジャンパケーブルがなかなか良かったので、KATOのAssyパーツのジャンパケーブルを買いに模型屋に行ったのです。

実はこれ、結構我が家だと使い道があって、もちろん要塗装ですが205系や201系、クモハ123形40番台に使えたりします。

と言うわけで目的のブツは手に入れたのですが・・・

こいつまでついてきましたwww
119系に続いて衝動買いですw

119系と一緒に走っていた郵便荷物車、クモユニ147形です。
写真は製品ままの姿ですが・・・

入線整備してこうなりましたw

逆サイドはこんな感じ。如何にも合造車らしい姿がなかなか魅力的ですww


サイドビューはこんな感じ。
郵便室部分は天窓がついた、中規模の区分室のある立派なもの。右側の三枚窓は荷物室と車掌室になります。
よく見ると三枚のうち一番右側は保護棒がなく、車掌室であることがわかります。

反対サイドビュー。
荷物室部分にはトイレ窓以外の窓がなく、トイレが荷物室部分に鎮座していることがわかります。
荷物室はあまり大きくなかったようですね。

先輩格との並びです
どちらも個性派ですなw

さて、クモユニ147形について恒例の解説と行きましょうw

クモユニ147形は昭和58年に、飯田線の老朽化した旧性能の郵便荷物用の電車を置き換えるべく登場した郵便荷物電車です。
当時の飯田線は秘境区間の貴重なライフラインを担っており、郵便荷物輸送も行っていました。取扱い量の関係からクハユニ56、クモハユニ64で行っていましたが、当時の国鉄は郵便荷物車を一般客室と合造しない方針になっており、客室を持たないクモユニ147で代替されることになりました。なお、荷物車(クモニ)により行われていた荷物輸送もクモユニ147に統合されています。

当時新規投入された119系と連結使用することが前提となっており、足まわりを合わせるためカルダン駆動となり、抑速発電ブレーキ付の抵抗制御となりましたが、台車や電動機は当時廃車が進行していた101系の物を利用しており、MT46A電動機とDT21台車、歯車比は5.6となっています。
当時の国鉄は財政事情から事業用車の足まわりに101系の廃車発生品を使い145系とし、発電ブレーキも無い簡易仕様としていましたが、飯田線は急勾配区間多いため抑速発電ブレーキを取り付け、形式番号も147を与えられています。
以上から145系列の一党といえなくもないものの、147の番号をもつ唯一の形式となり、新性能車ながら○○系の範疇に入らない車両となっています。

さて、クモユニ147形は昭和58年6月に旧型国電と入れ替わる形でデビューし、119系と共に活躍しました。しかしながら、沿線道路の整備や取扱い量の低下から、デビュー後僅か2年の昭和60年に飯田線の郵便荷物輸送が廃止されることになり、東海道線等に活躍の場を移す事になります。

東海道線ではクモニ143形等と共に郵便荷物電車で活躍しましたが、僅か1年後の昭和61年に今度は国鉄全体で郵便荷物輸送を廃止。誕生後僅か3年で職にあぶれ、静岡運転所に集結して牽引車代わりに使用される他は車庫の片隅で惰眠を日々を送る事になりました。

悲運とも言える運命を辿ったクモユニ147形ですが、その後思わぬ転機がやってきます。
静岡地区で「するがシャトル」によりフリークエントサービスの有効性に気付いた静鉄局は、昭和62年に身延線の都市近郊区間である富士~西富士宮間で電車の大増発を行う事にしました。
それまでの輸送実績から同区間は単行または2両で賄うことになり、単行運転が可能な電車が必要になったのです。さりとて民営化直前で新製車を用意する程の資金もありません。
そこで車齢も若く静岡運転所で隠居生活を送っていたクモユニ147に白羽の矢が当たりました。
郵便荷物室部分を客室に改装し、クモユニ147形はクモハ123形40番台に生まれ変わる事になったのです。

これにより悲運のクモユニ147形は形式消滅となり、僅か4年の短い歴史に終止符を打ちました。

ちなみに、クモハ123形となってからはJR東海に引き継がれ、身延線及び身延線からの東海道線直通列車に使用されました。
スケールは違うものの、故郷の飯田線と身延線は同じ中央線と東海道線を結ぶ私鉄からの買収路線であり、キャラクターが似ている同線で活躍するというのは運命的だったと言えるのかもしれません。
その後親戚とも言えるクモヤ145形からの改造車600番台を加えた7両体制で身延線の柱として活躍。冷房化も行われ、晩年は電動機をMT54に交換してパワーアップも行いました。最後は平成19年に313系に置き換えられ引退。クモユニ時代とは対照的に20年間の長きに渡って活躍したのでした。



以上、クモユニ147入線のお話でした。
我が家では119系のパートナーとして活躍させる予定です。

一息ついたら119系共々室内灯も入れたい所ですな。