こんばんは。2018年になりました。本年もよろしくお願いいたします。
昨日は1月教室がありました。その後の復習会での出来事で思い出したことがあったので、書いておきます。
たしか、修了生のWさんから、私は普段の生活でどんな取り組みをしていた(いる)のか、ということを聞かれました。
それで、どんな努力や頑張りが必要なのかということで、義務やノルマや苦行的なものではなく、子供の頃に夢中になって遊んだような、自分から進んでやるような努力が望ましい、というような話をしました。
これは教室で使っているテキストに出てくる「評価も課題も課さない」と同じことです、というような話もしたと思います。
話しながら、何かどこかで見たような聞いたような、デジャヴのようなものを感じながら話していました。
帰宅後に思い出したのですが、私の話したことは鈴木大拙の本が元ネタでした。
人生は芸術である。そして完全の芸術のように、それは自己没却でなければならない。そこには一点努力の跡、あるいは労苦の感情があってはならぬのである。禅は鳥が空を飛び、魚が水に游ぐように生活されねばならない。努力の跡が現わるるや否や、人は直ちに自由の存在を失う。彼はその本然の生活を営んでいないのである。彼は境遇の圧迫を受けている。何者かの制圧を感じている。そしてついに自分の独立を失うに至るのである。
鈴木大拙『禅学入門』講談社学術文庫、p.68-69
頑張るとか、努力をするというのを、なにか辛いことに耐えることだと思っている方がたまにいます。
これは、これまでの人生で私達が経験してきた勉強や部活や仕事がそういうものであることが多いので、ある程度はやむを得ないことです。
鈴木大拙も「努力」という言葉にそういうニュアンスを込めて使っていますね。
しかし、吃音克服の観点からやっていただきたいことはそれとは違っていて、上の鈴木大拙の文章に書かれているような、一点の努力の跡もないような、労苦の感情もないような取り組み方をしていただきたいのです。
ここで労苦としての努力をして「頑張って」しまうと、まったく成果が出ないということになりかねません。
あるいは、下手をすると、つらいのでもう辞めるということにもなり得ます。
そんな危険性をはらんでいるので、頑張り方のベクトルにはよく注意する必要があります。
ところで、小林秀雄の「美を求める心」にも「難しい努力を要する仕事なのです」という表現が出てきます。
ここまで読まれた方は、小林秀雄のいう「努力」が労苦としての努力とは違うということがお分かりになるでしょう。
こんなふうに、同じ言葉でも使う人によって意味あいが異なるので、それを読み取ることが大事です。
「頑張れ」と言われたときに、自分にとっての意味で頑張ればいいのか、あるいはもっと別のことを言っているのか。
ここを読み違えると、とんでもないことになります。
鈴木大拙の本は、昔に書いた記事でも取り上げていました。
こういうのが無意識のうちに出てくるのが人間の面白いところですね。