どうもこんばんは。新年あけましておめでとうございます。
今年一回目のブログを書こうと思ってエディタを開いたら、去年に書いた文章が下書きのまま残っていたことに気付きました。
せっかくなのでそれを最後まで書き終えて、新年一回目のブログとしたいと思います。
内容をみるに、去年の6月教室の後に書いたようですね。
以下の文章です↓。
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こんばんは。一昨日は期末パーティでした。今回は巣鴨駅近所の中華料理屋さんで開催しました。参加者は20人くらいだったでしょうか。
今回も盛り上がっていました。企画してくださったOさん、Hさん、ありがとうございました。
今日は読書の効用について書いてみたいと思います。
私たちが何かを学ぶときは、いくつかの方法があります。
学校の授業を受ける、本を読む、誰かに教わる、自分で体験する、などといったものが主なパターンでしょうか。
このうち大きな意味を持つのが「本を読む」です。本を読めるかどうかで、習得できる内容と速度には大きな差がつきます。
というのは、私たちが人生を生きていくなかで、様々な悩みや疑問が生じますが、そのほとんど(ほぼすべて)はすでに先人も体験していて、どうすればいいのかが大抵どこかの本に書いてあるからです。
例えば仏教の経典などがその好例です。法華経とかいろんなお経がありますが、昔の人そういった経典を読んで学んでいました。
お経というのは、日本だと音読するのが一般的で、一般の人はその内容まで読み込むことはあまりありません。
しかし、本来はあれは音読することを目的として作られたものではなく、文章で何か伝えるために作られたものであるはずです。
もちろん、口伝で伝えられていくなかで、リズムがいいとか韻を踏んでいるとか、音読に適したように変遷していった面もあると思いますが。
経典の内容をレクチャーしてくれる人はいなくても、天竺や中国からはるばる渡来した経典を読み込むことで、後年のお坊さんたちはそこから教えを学びとっていきました。
西遊記で三蔵法師がはるばるインドまで経典を求めに行くのも、それを読むことでたくさん得ることがあったからです。
経典は過去の先人の教えを積み重ねた結晶なので、そこからは多様な含意が引き出されます。
これに対して、個人の経験や体験にのみ拠っていると、それはあくまでも一人分でしかないので、一生かけて探求しても到達できるラインには限界があります。
外国には「車輪の再発明」という言葉があるそうです。
車輪は既に世間で広く知られている発明(もはや誰が発明したかも分かっていません)ですが、過去に学ばないとこれを再発明してしまうという愚に陥ってしまいます。
「本を読む」というと、よく「頭でっかち」とか「知識ばかり身につく」とか「机上の空論」とか「象牙の塔」とかネガティブな印象があって、実践的な知が身につきにくいような印象があります。
たしかに、普通に読むとそうなります。
しかし、ある読み方をすると、まったく違った、生き生きとしたものになります。
それはどういう読み方かというと、自他対立的に読まないで、その者(作者)になりきって読むことです。
「この文章によって、作者はどのようなこと(感覚、印象)を伝えようとしているのだろうか」という観点から読む。
そうすると、文章から得られる感じはまったく変わります。
数百年前の(場合によっては千年、二千年前の)文章でも、「ああ、こういうことを言おうとしてるのか」と手に取るように分かる瞬間があります。
これが本当の意味での「分かる」ということなんですね。
私は幸運にも、読書能力が非常に高かったので、カウンセリングの勉強をし始めてから短期間で、カウンセリングの時間をカウンセリングとして成立させることができるようになりました。それを可能にした大きな要因は読書です。
読書への適正は人によってかなり差があるので、万人にお薦めできるものではありませんが、一つの方法としてご紹介しておきます。
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