どうもこんばんは。
しばらくブログの更新が途切れていたので、今日は2日連続で書いてみます。
今日は復習会だったので、そのことについて書いてみることにします。
といっても、カウンセリングではその場その場で話がどんどん展開していくので、まとまったネタを見出しにくい感じがあります。
記憶には残っているので、それを掘り起こせば最初からの流れを再現することはできるのですが、私からするとあまり意味がありません。
重要なことはあくまでも印象です。
それで、今日の印象をなんとなくまとめてみると、今日は「自分からみてどうかが重要なのだ」ということを改めて感じました。
吃音は個々の症状がかなり違うので、人と比べることにあまり意味がありません。
「こうしたら吃音がよくなった」的な話がよくありますが、あれはあくまでも参考にしかならない。
人によって治る速度も違うし、治り方も違います。
それまで足踏みしていた人が急速に変わることもあるし、順調に変わっていた人がある時点で足踏みすることもあります。
身長が人それぞれ違うように、その人に固有のものを持っています。
「○○さんはどんどん良くなっていくのに、私はぜんぜん変わらない」とか悩む必要はまったくありません。
そうすると、重要なのは自分の主観的な世界なんですね。
自分からみてどう感じるか、見えるかということが決定的に重要です。
吃音(だけでなく様々な不適応に陥っている)の人は、自分がどうなっているかとか、自分がどう感じているかということに対して疎い人が多い。
「吃ってはいけない」的なべき思考や、「吃ってしまった。駄目だ。」という自罰的な思考は、何かの価値観に基づいて自分を判断するものです。
自分の感覚ではなく、なにか外から判断基準となる価値観を持ってきて、それで自分を処断してしまっている。
これでは自分の主観に基づく印象や感覚の入り込む余地がありません。
そうではなくて、自分からみてどうなのか、自分はいまどういう感じがしているのか、という自分だけのリアリティに目を向けていくことが大事です。
他人からどう思われたとしても、本人が吃音を気にしていなければ、そこに吃音の苦悩はありません。
逆に、どんなに流暢に喋っていたとしても、ちょっとしたつまづきを大きく捉えるような思考をしていたら、99%話せているにもかかわらず「吃ってしまった」と落ち込むことになるでしょう。
1%の吃りに固執する人は、客観的な吃音の検査法で「あなたの吃音はごく軽いです」とか「吃症状はほとんど認められません」などと診断されても何のプラスにもなりません。何か心の持ちようが変わる出来事が無い限り、、いつまでも悩み続けるでしょう。
重要なことは徹頭徹尾、「自分からみた感じ」です。
知識だとか理屈だとかに耽溺していても、何の変容もありません。
カウンセリング的な人格の変容が起きるためには、心の部分を使っていく必要があります。