華麗なるバックトス 高木守道 | ほぼ日刊ベースボール

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野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。



高木守道



アライバで鉄壁を誇る中日の二遊間。現在の日本でナンバー1の二遊間であることは誰もが認めるところであろう。しかし中日のセカンドというと高木守道。これは誰もが認めるところではないだろうか。華麗なるバックトスとグラブトスはまさに芸術品。プロの職人とはこのような名手のことを言うのかと実感させられる選手であった。2006年、野球殿堂入りも果たす。



1960年中日に入団。同年5月7日対大洋ホエールズ戦で初打席初本塁打デビュー。1963年に二塁のレギュラー奪取。この年50盗塁を記録し盗塁王。以後1965年、1973年と3度の盗塁王に輝く俊足に加えて、1969年に24本塁打するなど通算236本塁打とホームランもよく打った。1974年にはチームの20年ぶりの優勝に大きく貢献した。二塁手でベストナイン7度は史上最多。1980年限りで引退。シーズン終了後にナゴヤ球場で行なわれたセ・リーグオールスター東西対抗では同年引退した王貞治とともに記念のセレモニーが行なわれた。



県立岐阜商業高校時代に立教大学四年ですでに大学球界のスターであった長嶋茂雄がコーチとしてやって来た際に、長嶋はまだ一年だった高木の才能を見抜き、監督に高木をレギュラーとして使うように薦め、その結果、高木はすぐにレギュラーを取りチームの中核となった。



守備の人と思われがちだが、四打席連続本塁打を放っていたり、ミートに関しては隠れた天才であった。現役時代、監督と起用法をめぐって対立し、抗議の意思を込めて次の試合で全打席初球ピッチャーゴロを宣言、実行した。これに監督も折れ、高木と和解したという。2000本安打も達成、守備の人としての印象が強い中、名球会入りも果たしている。



また非常に義理堅く、礼節をわきまえていた。1974年、巨人のV10を阻止して中日の優勝に貢献。優勝決定翌日の10月13日に予定されていたこのシーズンの後楽園の巨人×中日最終戦は長嶋茂雄引退試合であったが、降雨で14日に順延してしまい、この結果中日の優勝パレードと日程が重なってしまった。このため、大島康徳などの若手・準レギュラー級選手のみを出場させ、中日レギュラー選手は同日の中日優勝セレモニーのために欠場するように球団に言い渡された。この通達に高木は「偉大なる選手になんて失礼なことを」と大いに憤慨し、球団にその通達の撤回とそれが無理ならばせめて自分だけでも出場させるように抗議した。しかし、その願いは聞き入れられず、高木は優勝セレモニーで終始ぶ然とした表情をしていたという。高木はのちに長嶋に電話し謝罪したという。



引退後、監督としても活躍。監督としての力量及び評価は非常に高く、2003年オフには中日の監督候補に再び彼の名前が挙がっている。結果的に落合博満が就任したが、高木の采配の下で2年間(1992年~1993年)プレーした落合は、高木の采配を非常に参考にしているといわれる。高木自身も、落合支持派が少ないとされる中日OBにあって、杉下茂、中利夫、権藤博らとともに、落合支持派の1人である。