生麦事件を歩く(2) | ヘルベルト・フォン・ホリヤンの徒然クラシック

生麦事件を歩く(2)

 京浜急行生麦駅に戻る途中に瀟洒な建物がある。ああ、ここが吉村先生が書かれていた市井の生麦事件研究家の家か。表札には 「文久2年 生麦事件参考館」とある。年号まで書いてあるのは珍しい。如何に思いが深いかが分かる。


 すると突然人が出て来た。ゴミを出しに来たのだ。恐る恐る聞いてみた。


「ここの方ですか? 今日見学できますか?」


僕の顔をじっと見て、「予約の電話が欲しいですね。仕方ない、今日時間ありますか? 最低一時間。」


「もちろんですよ。生麦事件のために1日空けたんですから」



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自宅兼生麦事件参考館前の浅海武夫氏。電話には必ず明るい大きな声で「はい、お電話有難うございます。生麦事件参考館浅海武夫でございます。」と応対する。酒屋の主人であった頃を彷彿させる良く通る声だ。



 参考館の中に入る。ところ狭しと資料が並べられている中で目を引いたのは、腹をえぐられ、沢山の傷を負って横たわっているリチャードソンの痛々しい遺体の写真だ。


「オランダ、ライデン大学から取り寄せました。」


 一時間浅海氏の市民講座を収録したビデオを見た。これがまた面白い。つまらない講義を繰り返して授業料をとっている全国の大学教師、客のつかない落語家、講談師、浅海さんに弟子入りしろ! 流れるような名調子、無駄な言葉がまるでない。音楽をさえ感じさせる。ビデオが終わりかけると浅海さんが二階から降りて来た。


「並みの講談師じゃとてもかないませんね」


「はい、私は好男子ですから」


「何でこんな資料館作ったんですか?役所か財団の仕事でしょう?」


「はい、ここをご覧のように、うちは生麦で酒屋を営んでおり、私も家業を継ぎました。ある時一通の手紙が届き、それがきっかけで私の人生も変わりました。」


 昭和四年生麦で生まれ、ここで育ち、その後40年酒屋を経営した。昭和五十一年、鹿児島から訪ねて来た年輩の客を近所にある、生麦事件の碑を案内したそうだ。それから数日して、礼状が届き、立派な記念碑があるのにどうして資料館がないのですか?と書いてあった。浅海さんはそれまで生麦事件にはなんの関心もなかったのだが、この事件が、幕末の重要な出来事であったことを知り「生まれ育った生麦で起こった事件の資料を集めてみよう」と自力で収集。18年かけ、1994年に同館をオープンさせた。資料館でも博物館でもなく、参考館と命名するところなど、商人として生きて来た控えめで、賢さも感じさせる。佐原の伊能忠敬、京都の石田梅岩、大坂の山片蟠桃、などは商人としてしっかりと働き成功して後、学問も大成させた。浅海さんもそんな臭いがする。


 資料集めだけではない。荒れ放題になっていた、横浜外人墓地のリチャードソン達の墓を、募金をして改葬した。僕が元町で意外と美しく、丁重に葬られているなと感じたのは、浅海さんの尽力の賜物だったのである。



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この他にも横浜市から、街作り功労賞などのプレートが門を飾っている。




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十畳ほどの館内には、約150点の資料が所狭しと展示。




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酒屋としても繁盛していたことが分かる。



 毎日参考館に来る応対に忙しい。また全国から講演の依頼が殺到している。楽しい歴史談義は二時間を越えた。呼び鈴が鳴った。


「あっ、予約された茨城大学の先生達が来られたみたいです。」


「それではこれにて」


 家に戻ってもう一度「生麦事件」のあとがきを読んでみた。「事件の現場である生麦町で酒類商を営む浅海武夫氏が、自費で生麦事件参考館を設けていることを知り、そこにおもむいた。中略、研究者は皆無と思っていた私は、浅海氏という地道な研究者がいたのを知ったのだ。私は、生麦村の庄屋が丹念に記した日記を残しているのを耳にしていたが、氏の斡旋でそれを入手することもできた。日記には事件の概要が簡潔に記され、さらに毎日の天候その他がもれなく記されていて、小説を書き進める上で大きな力となった。」


 吉村先生が浅海さんを、単なる町の郷土史家ではなく、研究者として敬意を表していることが分かって嬉しかった。これからも体の続く限り生麦事件を語って行くそうだ。また、なんと音楽を愛好し、毎年サイトウキネン・フェスティバルには必ず足を運んでいると言う。嬉しいことに、これからはホリヤンのコンサートにも来てくれるそうだ。


この項 終わり。



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楽しい歴史談義の上、沢山の資料もお土産に頂いた。記念に封筒に署名もしてもらった。訪れる時は必ず予約の電話をすること。突然飛び込むような非礼は慎まなければならない。