毎朝の課業 | ヘルベルト・フォン・ホリヤンの徒然クラシック

毎朝の課業

 前の晩どんなに飲んでも朝の頭は冴えている。その冴えがなくならないうちにピアノに向かう。バッハ、ロ短調ミサ、キリエを弾き始めると、もうバッハが降りて来て僕の横に座っている。キリエはどんなに忙しくとも、時間のある時は一曲でも多く音にする。大バッハとサシで語りあう大切な時であり至福の時である。最近この習慣が身につきシメタと思っている。


 ただお勉強のためにだけやっているのではない。来年4月24日ミューザ川崎シンフォニーホールで行われる、合唱団「アニモKAWASAKI」定期演奏会でこのロ短調ミサを指揮するための準備である。


 ロ短調ミサは「マタイ」「ヨハネ」両受難曲と並ぶ大作であるが、演奏するものにとっては、技術的に格段に難しい。


 1996年6月9日。紀尾井ホールにおいて、オラトリオ東京定期演奏会で初めてこの曲を指揮した。合唱、オラトリオ東京。オーケストラ、東京交響楽団。ソプラノ佐竹由美、手嶋真佐子。アルト、郡愛子。テノール、五郎部俊朗。バス、宇野徹哉。というキャスティング。


 粒ぞろいの歌い手が揃うオラトリオ東京でさえ練習は難航した。「高ミサ」と呼ばれるこの曲が本当に高く聳えるミサであることを身をもって実感した。本番の演奏をある高名な音楽評論家が「音楽の友」誌上で「この演奏は堀俊輔のバッハである。」と酷評された。久しぶりにそのライブCDを聴くと、確かに未熟な所は散見されるが、合唱とオーケストラの音が生きている。バッハの神々しいサウンドに満ちている。堀俊輔のバッハも捨てたもんではない。少なくとも表面的な関心を満たす程度の浅いものではないことだけは自負出来る。


 バッハ作品は、愚直なまでに楽譜をしっかり読み、一つ一つレンガを積み重ねる如く音楽を築きあげて行かなければ、バッハはその姿を見せてくれないのである。


 最近、譜面を見ていると楽譜が踊っているように見えて来た。練習で「バッハは20人も子供を作った精力家だ。僕にはこのオタマジャクシ達が、元気に泳いでいるバッハの精子に見える。もっと生命力に溢れた演奏をしなくっちゃ!」と言ってしまって女性団員のひんしゅくを買ってしまった。でもそう見えたんだ。


 今回心強いのは、世界的バッハ研究家、礒山雅先生に公演アドバイザーになって頂いたことだ。礒山先生は僕が勝手に一方的に私淑申し上げている先生であり兄貴分である。今よりもっともっと未熟な時から応援して下さっている。


 特にシューマン「楽園とペーリ」を毎日新聞月間第一席に推して下さり、その評は「オラトリオの概念を変えた演奏」というものだった。どれだけ励みになったことだろう。僕の一生の誇りとする一行である。


 先生にはその後国立音楽大学のオーケストラの教員にも推して頂いた。して頂いてばかりでお返しするものは何もない。良い演奏をして喜んで頂くことが一番であることを信じて研さんに励もう。


 座右にあるのは先生の名著「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」東京書籍刊。昭和60年4月1日初版。何度読み返したことだろう。読み返すたびにバッハが好きになり、読み返すたびにバッハを演奏したくなる。 今度、先生39才のこの労作を加筆し、新たに講談社学術文庫から同じタイトルで出版され
た。早速送って頂いて感激だ。


「マタイ」「ヨハネ」の両受難曲に比較して「ロ短調ミサ曲」は、いっそうの客観性を備えた、厳しく崇高な音楽である。コラールのような素朴な民衆的楽章はもはやなく、高度な技巧を駆使しての高い芸術的表現に、すべての演奏者が向かい合わなくてはならない。これこそは宗教音楽家としてのバッハの活動の総決算を示す金字塔であり、バッハを愛する人のたどりつく、究極の世界であろう。
-バッハ=魂のエヴァンゲリスト- より



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朝のピアノにはバッハが乗っている。ますます頭が冴えて来る。左から新バッハ全集ベーレンライター版。ヴォルフ校訂ペータース版。オルガンパート譜。見なければいけない楽譜は山とある。だか良い演奏出来る方法を書いた本はどこにもない。




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僕のカバンの中にはいつでもどこでも、来年の4月24日までは、ロ短調ミサのスコアとこの二冊が入っている。