ヘルベルト・フォン・ホリヤンの徒然クラシック -8ページ目

忙しいことはいいことだ。

連休の真っ只中、中国合唱コンクール審査を終え、広島駅に向かうタクシーの中で、女性運転手に声を掛けられた。


「お客さん、観光ですか?」「いや仕事で3泊しました。」「連休なのにお仕事とは大変ですね。」「どうして?全然大変じゃあない。嬉しくてしようがない。」


一瞬彼女の顔が引きつった。僕もしまったと思った。たかが挨拶がわりの言葉に真剣に応じてしまった。時々陥ってしまう僕の悪い癖だ。しかし出てしまったから行き着くところまで行くしかない。


「本当に大変なのは仕事がないことだ。大企業は事業を縮小し、JALは6000人の人員整理、再建策も見えず前原国交相の次の一手は流動的で鳩山首相の判断ということになろう。オバマ大統領と鳩山新首相の最大の政治課題は経済問題で一致しているが、外交、安全保障その他で緊密なパートナーシップを築くためにもまず自国の経済の健全化を図らないと。その為にはまず雇用だ。失業者をなくさないと。だから仕事があって大変なことはない。有難いことなんだ。オタクだってそうでしょ。一日流して一人客も拾えなかった。こっちの方が悲劇だ。」


運転手はますます恐れいるばかりであった。可哀想にたまにはボクのような客に引っ掛かるのが乗車拒否出来ない仕事の辛さ。運転手が小さな声で聞いた。


「あのーお客さん、どこかの大学の先生でいらっしゃいますか?」「先生と呼ばれることもあるけどそんなええもんちゃう。」


病気が出て久し振りに演説してしまったが、今日も仕事がある、行く所がある、この幸せを今人生で一番実感している最中である。若い時の小澤征爾氏の最大の恐怖は仕事がなくなることとおっしゃっていたがあの偉大なる人物でさえそうだったんだと、改めて失業の恐ろしさを痛感する。


以下9月すでに終えた仕事、これからのスケジュールを神からいただいた仕事に感謝を込めて列記する。


9月5日 オーケストラフィルハーモニカ。メンデルスゾーン交響曲二番「讃歌」横浜みなとみらいホール。
7日 夜川崎市合唱連盟アニモ練習川崎泊。
8日 東響川崎市音楽教室午前午後。ミューザ川崎シンフォニーホール川崎泊。
9日 東響川崎市音楽教室午前午後。
10日 移動日。
11日 中部フィル練習並び録音。名古屋泊
12日 移動日。伊勢参りをしてから京都泊。
13日 午前京都音楽フェスティバルオープニングコンサートゲネプロ見学。秋山和慶指揮京響。午後京響練習場にて10月オーケストラディスカバリーの練習。
14日 川崎アニモ練習。
15日 午後イタリア大使館にてMonia嬢からインタビューを受ける。
16日 夜中村紘子デビュー五十周年記念パーティー帝国ホテル。移動。名古屋泊。
17日 中部フィル文化庁公演。岡崎梅園小。名古屋泊。
18日 広島入り。夜審査委員歓迎会。広島泊。全日空ホテル。
19日 全日本合唱コンクール中国大会審査。フェニックスホール。夜水泳。
20日 同ホールでコンクール審査。夜水泳。
21日 移動。川崎アニモ練習。
22日 福井県小浜市にて午後ちりとてちんピアノコンクール審査。市内見学の後夜12月の第九初練習。近江今津まで移動。大阪ホテル日航泊。清水湯にも寄る。
23日 関西合唱コンクール審査。岸和田浪切ホール。名古屋泊。
24日 午前。文化庁公演。中部フィル。名古屋市矢田小。名古屋泊。ホテルキャッスルプラザ。
25日 今日。午前。名古屋市金城小。文化庁公演。中部フィル。午後移動。東京経由。渋谷文化村でクララ シューマンを見た後山梨県甲府市に移動。
26日 27日関東合唱コンクール審査。山梨県民文化ホール。
28日 午後文化庁公演。名古屋市新栄小。中部フィル。名古屋泊。
29日 午後文化庁公演。名古屋市南陽小。中部フィル。
30日 午後。文化庁公演。愛知県東浦町緑川小。



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<寸暇を惜しんで観光にも精を出す>
二見浦の夫婦岩を眺める。僕を眺めるのは名物、二見ガエル。ホリヤンのお伊勢参りは後日力作を掲載予定。

新型インフルエンザにご注意

8月30日、世の中が政権交代の歴史的選挙を行っている頃、僕は山梨県韮崎市で合唱コンクールの審査員として県内の合唱団の演奏に聴き入っていた。8月下旬に県大会が始まり、9月の支部大会、10月、11月の全国大会へと続くコンクールの季節が始まったのである。


審査員席に座っている僕の姿は例年とはちと違っていた。席に座る前、主催者からマスクの着用を求められた。休憩の際はアルコール消毒液で手を洗うように勧められた。これは勿論新型インフルエンザ対策である。



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審査中の筆者。なにやら物物しいが、目に見えぬ敵の侵入を防ぐ。これをまず審査員が示しているのだ。




実は会場入りする前から、少しは覚悟をしていた。というのは、一週間前福島県大会で、客席に誰もいないコンクールという見出しで、舞台で演ずる合唱団と2階席にいる審査員だけでコンクールが行われたという新聞記事を読んでいたからである。


合唱は複数の人間が大声を張り上げて演ずる音楽である。それ故飛沫が無数に飛び交い、客席に届き、人にうつる可能性があるという訳だ。インフルエンザ蔓延の恐ろしさを考えればそれもやむを得ない措置だと思う。


だが、これはコンクールの意義を大きく損なうものだ。成程コンクールは、演奏を審査員が評価するだけで、たとえ聴衆に受けたとしても何の点数アップにもならないが、演奏というのは人前で演じ、表現するということが大前提になっている行為であることをまず忘れてはならない。聴衆が居るからこそ、緊張感も即興性も生まれ、音楽する歓びも生まれてくるのである。丑三つ時に多摩川の土手でいくら名演奏してもむなしさだけが残るであろう。音楽は聴衆がいないと成立しない芸術なのだ。


また、ひと夏練習を積んだ音楽のライバル、あるいは仲間と言える他の団体の演奏を聴いて、刺激を受けること、これが何よりも技術向上に功を奏するのだ。自分達だけの世界から、より広い音楽の世界を知る。どのような演奏が評価され、どんなレベルの団体が上のコンクールに進出できるのか。それは聴かなければ分からない。客席から締め出されては何も体験できないのである。


山梨県大会では幸い入場制限はなく、「うつさない、うつされない」を合言葉に通常通りすべての人が客席で演奏を楽しむことが出来た。


素晴らしい演奏にも出会えた。県理事長高柳勉先生の指揮するS.C.Gioiaの精度の高い演奏には驚嘆した。金賞で関東大会に進む。僕は関東大会の審査もするので、この演奏に再会するのが楽しみだ。



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当日のプログラム。

暑中お見舞い

読者の皆様暑中お見舞い申し上げます。私も元気にしております。芭蕉の如く旅を住みかに東奔西走の毎日です。


8月に入って、1日福島県相馬市中村一中ブラスバンド指導。帰途仙台駅すし屋横丁にヤマハ社員大賀氏と寄り立ち食いす。2日三重県文化会館にて全国高校総合文化祭。作曲家木下牧子さんと共に講評者として出席。終了後二人きりでそれも個室で伊賀牛に舌鼓。今日3日京都西京極小学校にて10月25日京都市交響楽団オーケストラ・ディスカバリーの合唱練習。その前に京響マネージャー白方嬢と新福菜館でラーメン。明日4日広島平和コンサート練習。秋山和慶氏、広響と共にフォーレレクイエム。ソリスト、森麻季、福島明也。5日同コンサート本番。終了後秋山氏、楽団関係者と飲み会。6日12時より大久保東響練習場にて、こどもフェスタ、練習。夜静岡県焼津市文化センターにて、光の中コンサート、の合唱練習。本番は10月12日。7日川崎にて、讃歌、真夏の夜の夢、練習。9日ミューザ川崎こどもフェスタ午前午後二回本番。夜、アマチュアオケ、オーケストラ・フィルハーモニカ練習。10日京都にて練習、、、、と云う風に延々と続きます。



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愉快な指揮者、ホリヤン、今年も登場。世界のマエストロにまざって堂々の連続出演。サイン会で去年より一回り大きくなっている子供達と再会するのが楽しみだ。




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今年はとうとう子供達に交響曲を聞かせる。芸術に触れさせるのだ。いつまでも楽しいだけの音楽ばかりではかえって子供達に失礼だ。同時開催で世界的写真家、木之下晃氏による写真展がある。そこにナナナナなんと世界的指揮者ホリヤンが仲間入りしているのである。ヒジョーに名誉なことだ。



その他の私のコンサート案内。8月23日愛知県芸術センターにて、伊勢湾台風五十周年セレモニー。出演、中部フィルハーモニー、秋川雅史他、NHKで放映。29日2時松戸市で、0才からのコンサート。9月5日2時横浜みなとみらいホールにてオーケストラ・フィルハーモニカ本番。メンデルスゾーン生誕二百年記念コンサート。
8月盛夏。



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すっかりお馴染みになった。ズーラシアンブラスとの、0才児からのコンサート。今回も完売御礼という盛況だが、30年以上住んでいる川口市での初めての仕事。これだけ飛び回っていて川口には眠りに帰っていただけだったことに気付く。




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川崎市合唱連盟アニモ演奏会。去年の、エリア、に続いてメンデルスゾーンプログラム。指揮者になって良かったと思う。1小節1小節棒を振るごとにメンデルスゾーンの天才が伝わって来るからだ。まるで指揮棒はアンテナである。素晴らしいコンサートになる予感がする。




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私が選んだソリスト達。特に現在ドイツで研鑽中の市原愛さんの成長ぶりが楽しみだ。馬原、吉田のお二人はもう絶対の信頼。




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世界的に大活躍している京都市交響楽団常任指揮者広上淳一氏のプロデュースによる新企画、オーケストラディスカバリーに呼んで頂いた。京響の指揮台には実に18年振りに立つ。広上氏の友情溢れるご配慮により再登場が実現した。他人のことなど全く考えないエゴイストが多い指揮界にも彼のような人もいるのだ。暫く私は彼の子分になります。




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オーケストラディスカバリーの指揮者の面々。昨日まで、二回が終了したがいずれも大成功したそうな。次は10月25日私の番。広上氏の恩に報ゆるためにも頑張りたい。そして次には彼にお返しをしたい。

ミュンヘンに到着

約2時間遅れのミュンヘン行き夜行列車CNL484にようやく乗車。イタリアでは列車の到着が遅れること、出発のホームが変更になること、突然運休になることなど日常茶飯事だ。


「1番線到着予定のCNL484列車は5番線に変更になりました」人々は大急ぎで5番線に。しばらくすると「5番線に変更になりましたCLN484列車は10番線に変更」すると人々は10番線に。しばらくすると「10番線に変更になりましたCNL484列車は……」


まままっ、またか!


「間もなく2時間遅れで到着します」


このアホ、ええ加減にさらせ!などと怒る人は誰もいない。鉄道とはこういうものだとあきらめているのである。アナウンスがあるまま、寒い中を移動する。怒っているのは只一人、僕だけだ。


ミュンヘン行き、夜行特急列車CNL484のコンパートメントは6人掛け。中に入ると外国人特有の強烈な体臭で一瞬気絶しそうになる。髭モジャモジャの男達とこれから7時間過ごすのだ。


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<コンパートメントの中>
国境に近づくとパスポートチェックと検札がある。




これからのコースは、アルプスの麓ブレンナー峠を越え、オーストリアに入り、インスブルックを経てミュンヘンに向かう。



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インスブルック。冬期オリンピックが行われた美しい町も真夜中で何も見えぬ。




200年前、文豪ゲーテ(1749~1832)はこのコースとは逆にオーストリア側からイタリアの明るい太陽を求めてブレンナー峠を越えた。「イタリア紀行」に詳しいが、ドロミティ渓谷の美しい景色を楽しみながらの旅だった。僕は夜行なので明朝までイビキと体臭の中にいる。気の効いた文章など一行も思い浮かばんよ。


途中、大きな揺れを感じて目が覚めた。停車駅はボルツアーノ。上にイタリア語で「Bolzano」、下にドイツ語で「Bosen」と併記されている。ああ、もう国境が近いのだ。


ボルツアーノには、良い思い出がある。あれは10年前、この町で、ピアニストの中村紘子さんと共に食事をしたのだった。この町では、3年に一度、ボルツァーノが生んだ世界的ピアニストであり、作曲家のブゾーニの名を冠した「ブゾーニ国際ピアノコンクール」が開かれている。その時、僕が姐御として崇拝する紘子さんが同コンクールの審査員としてこの町に来ていた。


「ホリヤンさん、お食事でもしましょ」という夢のようなお申し出に甘えて、お呼ばれにあずかったのだ。


彼女はこの地で一番の高級ホテルに泊まっていた。一方僕は町はずれにある多分一番安い宿に泊まっていた。もちろん食事は紘子さんの豪華ホテルでしたのだが、イタリア料理のようなドイツ料理を楽しんだ。料理も町の姿と同じく、歴史の変遷を物語っている。


紘子さんとのお喋りは楽しい。本物のグルメであり、自身も料理の名人である(特にカレー)。食べ物に関連する本を書けばベストセラー間違いないだろう。



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僕をアルプス越えをさせてくれた夜行特急CNL484列車。降りる時何だか別れが辛い。




12月30日(火)AM6時50分ミュンヘン着。駅前の常宿「Schiller5」に荷物を置いてすぐ町の中心バイエルン州立歌劇場に行く。やっとドイツに来たのだ。 ~旅は続く~



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ミュンヘンに到着。駅構内は明るいが表は薄暗い。寒いぞ。





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ミュンヘンに到着すると真っ先に来るのは歌劇場の広場だ。音楽の生まれる場所に立つのは気持ち良い。





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ドイツの指名手配写真ではない。歌劇場の前に掲げてあるボツェックのポスター。





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朝陽に映えるバイエルン州立歌劇場。

梅雨を楽しませてくれたアジサイ達

6月も終わりに近づいた。
梅雨が明ける前に、今年僕の目を楽しませてくれたアジサイ達を紹介したい。


アジサイは毎日の生活に身近にあることが良い。矢田寺のような由緒正しいアジサイは勿論素晴らしいが、街角に、あるいはこんな所にもと驚くような場所で花を咲かせているのを見た時、ほのぼのとした幸福感に満たされる。


因みに朝日新聞の「読者が選ぶアジサイの名所」ベスト5は以下の通り


1.箱根登山鉄道(神奈川)
2.明月院(神奈川)
3.三室戸寺(京都)
4.矢田寺(奈良)
5.六甲山・摩耶山(兵庫)



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<近所の名もないアジサイ>
朝、家を出る時、家人は惰眠を貪って高いびきだが、最初の曲がり角に、たわわに咲いているアジサイが、代わって、イッテラッシャイ、と合唱してくれる。軽く頭をなぜてやると花びらは赤くなる。





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<不忍池から弁天堂を臨む>
上野の山は東叡山即ち東の比叡山と呼ばれる。不忍池は琵琶湖に見立てられる。この琵琶湖は蓮の葉でびっしり覆われていて水面が見えぬ。辺りには東照宮の他、清水堂、五條天神など京都にちなむ名の社が多い。都心では数少ない空が広く感じる場所である。大きなアジサイが小さく見える。





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<芸大の中で見かけたアジサイ>
僕は授業の前教官室を使わない。教室近くのテラスに出て缶コーヒーを飲んで始業を待つ。日頃気が付かなかったがアジサイが咲いている。猫の額のような校舎のはざまで。人間の歌う声、ピアノ、バイオリン、太鼓やラッパ、はたまた三味線の音を聞きながら成長したアジサイだ。





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<浦和中仙道調神社>
浦和一女のOGで構成されている合唱団、クール・ヴァンベールの練習を覗いてみた。実力者の集まりで少数だがいい響きのするコーラスだ。指揮者は田尻明規先生。優秀な教え子に卒業後も囲まれている幸せな方である。自分の棒にも意見を言ってくれという向上心の固まり。老人性頑固症候群は微塵もない。いい合唱が出来るはずだ。練習会場の斜め向かいにうっそうとした森があり、その中に調神社が鎮座ましましている。縁起は古く千年にさかのぼる。巨木に囲まれた能舞台の前に咲く、がくアジサイに見惚れた。調神社は、つきのみやじんじゃと読むのですぞ無学な読者諸君!





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<飛鳥山花見小路のアジサイ>
飛鳥山は言わずと知れた桜の名所。春には花見客で大にぎわいだが、不思議なことに人影はない。おかげでこの見事なアジサイの大群を独り占めにした。





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<奥沢九品仏の境内>
九品仏浄真寺は世田谷奥沢の名刹。四十年ぶりだ。以前はって? その頃好きだった女の子がこの近くに住んでいて、よくこの辺りをうろうろしていた。恐ろしく時間があった時代のこと。アジサイの美しさは変わらないが、沢山いたでんでん虫は一匹もいない。どこに消えてしまったんだ。梅雨空、アジサイ、それにカタツムリの三点セットを形成する大スターなのに。





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<川口グリーンセンターのアジサイ>
川口に住んで三十年、未だこの町に馴染めない。美味い飯屋、会いたくなるような主人がいる飲み屋がないからだ。しかし唯一ここグリーンセンターだけは別だ。自然を取り込んだ植物園として第一級であること間違いない。後日詳しく紹介するとして、アジサイの育成もこの通り見事なものだ。ストレスがたまるとこのグリーンセンターに飛び込む。JR川口駅からバスで30分。





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<我が家のアジサイ>
最後は毎日僕のそばにいて目を楽しませてくれた、我が家の庭の隅っこにいるアジサイ。何の世話もしたことはない。秋、冬、春にはその存在さえ忘れている。初夏になるとあっという間に、みずみずしい青い葉っぱをいっぱい広げ、自分を見てくれとばかり僕に訴えかけて来る。僕は見ているだけで何もやらない。天から落ちて来る雨水だけで、とうとうこんな美しい花を咲かせた。お疲れさん、また来年の梅雨空の下で会おう。

癒しのアジサイ -奈良矢田寺の紫陽花-

6月は僕の誕生月。この3日でとうとう59歳になってしまった。来年は1歳に戻るといわれる還暦を迎えるなんて信じられない。


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「村の渡しの船頭さんは今年六十のお爺さん。年は取ってもお舟を漕ぐ時は元気一杯櫓がしなる。ソレギッチラギッチラギッチラコ~」
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もうやめとくわ、ホンマに爺さんになりそうや。短命の家系である堀家の中で、よくぞここまで生きて来られたものだ。


それはおいといて、この季節アジサイが美しい。皆さんのところでもアジサイ達が可憐な花を咲かしていることでしょう。読者は意外に思うかもしれないが、僕は花を愛でるのが大好きだ。今年の春は日本に居なかったが、チャンとベルリンで花見(もちろん染井吉野)をしたし、帰国後も積年の念願だった、大阪桜宮造幣局の「通り抜け」も実現した。


桜や菊は文句なしに美しい。しかし6月生まれの僕はなぜかアジサイに惹かれるのである。暗い雨の中に道端でポッカリと丸く咲いている球を見つけた時など、時間を忘れて見入ってしまい、大事なリハーサルに遅れてしまいそうになったこともある。


先週京都に出かけた折、無性にアジサイを見て幸福になりたくなった。目指すは奈良、大和郡山、あじさいの寺、矢田寺。


近鉄郡山で降り、奈良交通矢田寺行きのバスに乗る。片道340円。


バスはアジサイ見物に行くジジババで一杯である。全員が60をとうに過ぎているホンマモンのジジババ。平日の午前中にアジサイなんぞを見に行くのはジジババか僕のようなフーテンだけだ。その僕も来年は……。


矢田寺は大和平野を一望できる矢田丘陵にある。普段は矢田寺地蔵や石仏を訪ねて来るごく少数の参拝者だけだが、この季節だけはアジサイを求めてドッと観光客が集まる。



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<矢田寺本堂からの眺め/梅雨時のカンカン照り。大和の空気はうまい。>




やはり来てよかった。境内に群生する無数の白・青・紫の球に囲まれていると、頭の中に脳内麻薬がどんどん分泌されてくるのが分かる。それに大和の清浄な空気のなんと美味いことよ。「ジジババの声高のくだらんお喋りさえなければここは極楽や。ワシは蓮の花の上にいるより、アジサイの中に埋もれたい」



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<白、青、紫のアジサイが咲き狂う。葉っぱの緑がまた美しい。>





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<アジサイの海を泳ぐ。たまらんな!>





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<がくアジサイも可愛い。バックは水玉のような青球の群れ。>





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<お地蔵さんもこの季節楽しそう。>




昼飯は帰りに立ち寄った農家で買ったもぎたてのトマト3個。アジサイ御膳、アジサイ弁当なるものを参道で売っているがやめておいいた方が良い。それよりまっかウリを食べるべし。まっ黄色なのにまっかとは! まくわ瓜が大和弁でまっかとなまったものだが、まっかの方が食欲をそそる。農家の庭先で冷えたのをふた切れ食べさせてもらった。大和の味がこんなところにもあった。



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<まっきなまっか。食べまっか?余りに重いので、軽い満願寺ししとうを四袋買った。八百円。>




紫陽花。Ortensia(伊)、Hortensie(独)、Hortensia(仏)、Hydrangea(英)、呼び名も花の色の如く変わる。

いよいよ陸路ベルリンへ

2008年12月27日(土)に戻る。いよいよこれから陸路ベルリンまで大旅行を敢行するのである。アルプスを越え、ミュンヘン経由という大まかなプランではあるが、思いつくまま気の向くまま途中下車をする放浪的な旅にしたい。関口知宏のヨーロッパ版である。


起床してすぐ近所のBarに行き、ひとしきり滅茶苦茶なイタリア語を喋った後、宿のオーナー、エレーナ婆さんに別れを告げた。「マエストロ、またのおこしをお待ちしておりますよ」一人息子を細腕(実際はごっつい)で弁護士にしたというのが彼女の誇り。暖かさで一杯の性格だ。(テルミニ駅5分 ホテル・コルトリッロ)



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<ローマの朝はカプチーノで始まる>





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<テルミニすぐそばの安宿のオーナー、エレーナ婆さん。一泊40ユーロ。Via.Principe Amedeo>




ローマ・テルミニ駅からフィレンツェS・M・N行きの準急に乗る。ここで要注意。発車間際の車両にこの日も女3人組の可愛い(?)ジプシーが乗り込んできて囲まれた。「Via!」(あっちに行け!)と大きな声を出して追い払ったものの、実に嫌な気持ちになる。彼らはそれで生計を立てているのかもしれないが、このような犯罪行為がこの国ではびっくりするほど取り締まられていないのである。イタリアで唯一嫌なことは、この一点だけだ。



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<出逢いと別れの場所、終着駅ローマテルミニ。次はいつ帰ってこれるだろう。Arrivederci ROMA. La mia bellissima citta eterna.>




途中下車の第一発目はアレッツオ。以前から一度降りてみたかった所だ。10年前にロベルト・ベニーニ監督、主演でアカデミー外国語映画賞を取った作品「ライフ・イズ・ビューティフル」の舞台になった町である。映画は全編に渡ってこの町で撮影され、ストーリーと共に美しい映像は僕の心に強く印象付けた。



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<途中下車の手始めはアレッツオ。生まれて初めて降りる駅。なんだかワクワクする。これこそ気儘旅の醍醐味>





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<駅前に立つ石像。詳しいことはワシには分からんけど、偉い人らしい。町の人に聞くと神父であり政治家であり、また音楽家でもあったそうな。グイド・モナコまた会おな>





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<大聖堂前の広場。この町も歴史がある。詳しいことはワシには分からんけど>




駅を降りるとまずレストランを探した。腹がへっていたのか? いいや、そうではない。だのに何故レストラン? これこそ旅の極意。荷物をタダで預けるためである。食事が終わると「町を見て来るので、その間この荷物を預かってください。重くて重くて一歩も歩けません」とタイミングよく切り出す。



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<トマトソースのピーチ。ピーチは桃にあらず。うどんの太さで食感は日本人にぴったり>





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<二皿目は牛のレバーを焼き固めた物とインゲン豆。トスカーナ人は別名豆食い人と言われるぐらいよく豆を食う。日本には中国から僧隠元によってもたらされた。あっ僧。>




実際、重い荷物を引きずっていては観光も放浪も成立しない。以前ヴェネツィアで大往生したことを思い出す。御存知のとおり運河の町。大きな荷物を2つ持って運河にかかる橋をいくつも越え、その上迷路に入り込んで出られなくなった。周りの景色など全く目に入らなくなる。地獄のような苦しみをおぼえたのだった。


今日も一瞬嫌な顔をされたが、僕の図々しさが勝ったのだろう。OKということになった。


映画で見た景色が散見される。古い歴史を持つ町なのだろうが、詳しいことは無知な僕には分らない。しかしそれでいい。知らない町を気儘に歩くということが今は一番大事なのだ。


再びアレッツォ駅に戻り、フィレンツェに向う。フィレンツェはもう日が暮れていたが、夜行列車にはまだ時間がある。町中を歩こう。特にストロッツィ宮の力強い建築を見たい。あの力強さは僕の芸術する心を鍛えてくれる。



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<夕刻フィレンツェに到着。乗る予定の夜行列車が来るまで五時間ある。ここでも途中下車しょうっと>




フィレンツェS・M・N駅→アルノ川→ポンテヴェッキオ→ストロッツィ宮→ドゥオーモ→フィレンツェS・M・N駅をテクテク回る。



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<夜のフィレンツェは絵はがきとはちょっと趣が違う。ポンテヴエッキオがアルノ川にボォーッと浮き上がる>





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<不気味に光るフィレンツェの象徴ドゥオーモ>





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<世界の中心であったメディチ家を想い馳せさせる、堂々と華麗なストルッツィ宮。これを見たかったんだ。こんな音楽を作りたいのだ。以下四連写お楽しみください>






 
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駅前のBarで安い白ワインを飲みながら、Baristaのオバちゃんと喋る。「アンタ中国人なのにイタリア語上手いね」と誉められて喜ぶ。「去年主人をガンで亡くして生活のためにここで働いているの」身の上話も聞くはめになった。「この子、孫よ。可愛いでしょう」と写真を見せた。鼻たれ小僧だったけど、まさか汚いガキやなとは言えない。


さあ、夜行列車の到着も近い、駅のホームで待つことにしよう。   <続く>



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<世の中暗いので明るい材料もおひとつ>



近況。百六十人の教え子出来る

4月新年度。いつから日本の4月を新年度の月にしているのか知らないが、僕はこの4月始まりがいい。桜の満開の中に入学式があるのが何ともいいのだ。欧米では9月始まり、日本も大正時代まで高等教育機関は9月始まりだったらしいが、夏バテの果てのフレッシュメンは似つかわしくない。


今年度からこんな僕にも新しい年が始まった。母校東京芸術大学の非常勤講師を拝命した。それもなんと声楽科の先生である。エーッ!!(ほとんどの人が声楽と聞いて絶叫する) 安心して欲しい。担当なのは「大学合唱」。芸大内では通称「大合唱」と言われている、声楽科の1年生から3年生まで160人の合唱のクラスである。僕の仕事は毎年11月に行われる芸大フィルハーモニア(教官オケ)の合唱付き定期演奏会(今年の演目はハイドン「天地創造」)と12月恒例、朝日新聞社共催の「メサイヤ」に出演するこの声楽科合唱団をトレーニングし、仕上げることである。


教師としての仕事は、今まで国立音楽大学で「オーケストラ」、静岡大学で「指揮法」というややお固い科目を担当したことはあるが、今回は母校からの依頼それも「合唱」の授業、これはちょっと面白いぞと思ったので喜んで引き受けた。


4月13日(月)芸大でのすべての授業が一斉に始まった日、卒業以来25年振りに芸大の中に入った。今度は教師として。この25年間、アカデミズムとは無縁の音楽の現場という大海原を泳いでいた。朝の上野公園、何もかもが昔のままだ。ハツラツとした青年だった自分は今、ハゲ上り残っている毛も白く変わっている。何しろ25年である。まさか母校の先生として再びこの道を歩こうとは。前日までベルリンに10日間滞在し、時差ボケがはなはだしかったが、不思議に気分はワクワクしていた。



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<4月13日。25年ぶりに芸大の門をくぐった>




10時30分、芸大第一ホールにて開講。重いドアを開けてホールに入るとそこは若者の熱気でムンムン。それにうるさい。しかし心の中では“これはいいぞ”と思った。アマチュアコーラスの練習に行くと、ほとんどの人がボーッと座って待っているがそれでは音楽は出来ん。もてあます声をもっていないと歌手にはなれぬのだ。第一関門合格。


「今年からこの授業を担当することになった堀俊輔です。宜しく!」
「ウォース、ギャオース、キャーッ、ガオーッ!」
まるでケダモノだ。そう言えば隣は動物園だ。


「君達の第一印象を言おう。騒がしい!の一言だ。怒っているのではない。誉めているのだ。お通夜のように黙って行儀よくしている歌い手であっては駄目だ。そのうるさい声を僕に欲しい。但し声ばっかりではアカン。それを音楽に変えるのが僕の仕事だ。このクラスは大学の授業ではあるが僕はひとつの演奏団体として考えている。皆は日本で一番難しい試験を突破して入学してきた人達だ。これだけのレベルの人が集まっている合唱団は世界一になれる。それぐらいの気概を持ってほしい。現場で鍛えたこの棒で徹底的にトレーニングしてあげる。そのためにはまず暗譜や! アンプやで!!」


世界一? それは決して言い過ぎではない。なるほど、文化や伝統の裏づけを求められるとたかが音楽大学の学生の集まりだが、世界には音楽大学の大合唱団というものが少ない。それ故、技術的に磨きをかければたちまちトップに立てるのである。


現に昭和20年代後半、カラヤンが初来日した折、N響の第九に芸大合唱団が出演したのだが、カラヤンは「これは凄い! ヨーロッパから遠く離れた所にこんな素晴らしい合唱団があるとは」と絶賛したそうだ。


それにしても僕は合唱とは縁が深い指揮者だ。
高校時代は美声(自称)で鳴らしていたが、ブラスバンドでトロンボーンを吹いていた。吹きながら実は遠くから聴こえて来るコーラス部の歌声が気になっていた。コーラス部には可愛い子が沢山居るのである。しかしコーラス部の男が好かん。俺は硬派だ。あんな7・3(シチサン)にキチッと分けやがってチャラチャラした奴らとは一緒に居ることは出来ん。体育会系のブラスバンドとは流れている血が違うのだ。だが……楽しそうでうらやましかった。


その後、早稲田に入学。大学紛争で授業が無かったからクラブ活動が大学生活である。目一杯音楽に関係するクラブをひやかした。オーケストラ、ビッグバンド、モダンジャズ、そして男声合唱団に入った。合唱団にまともに通ったのは4年生の1年間だけだったが、そこで学生指揮者として無茶苦茶な棒を振ったのが、指揮を志すきっかけとなった。



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<ワセダで歌っていた頃。僕のソロは聴衆を唸らせたもんだ。
うーん( ̄~ ̄;)?>




プロの指揮者になり、東京交響楽団副指揮者としての最初の仕事は専属合唱団「東響コーラス」の創立と育成。これは大変だった。何もノウハウを知らない駆け出し指揮者が人集め、運営、それに練習をつけるところまでするのだから、本業の指揮が全く出来ない状態になったことさえあった。


東響コーラスを一人前にした実績を買われて色々な所からお声が掛った。「横須賀芸術劇場」「東京シティフィル」「神奈川フィル」各合唱団を立て続けに創立、育成した。またその精鋭を集めた「オラトリオ東京」を結成し、新たな風を巻き起こしたこともある。


その間「二期会合唱団」などプロ合唱団との仕事も多く、「東京オペラシンガーズ」と共にサイトウキネンフェスティバルに参加したことも思い出深い。今も年に一度東京交響楽団と共演する川崎市合唱連盟「アニモ」を音楽監督として指導している。


僕は合唱団とは合唱という狭い枠組みの中で関っているのではなく、オーケストラ運動の一環として捉えている。人の声とオーケストラが一体になった作品、例えばバッハの「受難曲」ベートーベンの「第九」などは、例外なく偉大な作曲家たちの代表作である。いい合唱団を育成することは、つまるところオーケストラの発展にも大きく寄与することと考えている。昨年から(社)全日本合唱連盟の理事に就任したのも、オーケストラ、合唱、あるいはプロ、アマの垣根を飛び越えて発言し、行動する指揮者がいてもいいのではないかと思ったからだ。音楽のある所、どこにでも出掛けて行く音楽に貪欲な指揮者でありたい。


今後、芸大のこのクラスから色々なタイプの声楽家が羽ばたいて行くことだろう。中から有能な合唱指揮者もきっと生まれるだろう。口ぐせに「アンプや、アンプやで」という指導者だったらきっと僕のクラス出身の人だ。月、木の午前が楽しみになった。4月13日「一挙に160人の教え子が出来た日」と手帳に書き記した。



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<一挙に160人の教え子が出来た。学生の中に埋もれてホリヤンの姿が見えない。芸大第1ホールにて>

ルッツィの続き

さあ、今宵ルッツィでの食事。まず駆けつけナントカ、日本流に赤ワインを三杯ガブ飲みしてホッと落ち着いたところでいよいよ食べにかかる。


まずは瑞々しい緑のルゲッタのサラダ。歯ごたえがたまらない。噛んでいるとルゲッタ特有の強い香りと苦い汁で口の中が一杯になる。飲み込むとのどと鼻がツーンと痛い。しかし、これがなんとも気持ちが良い。胃袋が刺激され、食欲もますます出てきた。これだけ元気な葉っぱを沢山食べると明朝は大量のナニが出てくるだろう。



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<ルゲッタのサラダ>
ルゲッタとはローマ弁でルッコラのこと。明日の朝が楽しみだ。




次に楽しみのピッツァ。元々ピッツァは好きな方ではなかった。パスタに比べ、食感が今ひとつで味も大味なものが多かった。ところが、それをルッツィのピッツァが変えてくれた。薪の窯でこんがりと焼いたピッツァはそれまでのものが単なる平たい食べ物であったことを認識させるに充分であった。食べたのは勿論当店で一番シンプルなマルゲリータ。トマトとモッツアレッラのコンビネーションは今日も最高だった。



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<マルゲリータ>
ピッツァとはこんな美味いものかと教えてくれた逸品。




メインはエビにした。レモン汁をたっぷりかけて一尾まるごと口に入れると地中海の香りで満たされた。ワインは赤白あわせて何杯飲んだか憶えてない。


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Spiedino di Gamberoni
地中海の味を舌に届けてくれる可愛い海老達。スピエディーノとは一串のと言ったところか。





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<ルッツィの上の道路表示>
日本式にいえばサンジョヴァンニラテラーノ寺参道。

ルッツィでローマの味を満喫

ティヴォリからローマ市内迄約一時間。何も食べていないのでフラフラ。食べないのは訳がある。僕のお気に入りの店ルッツィのために空腹を養っているのである。ローマで最高の店と推薦する。美味い!安い!料理はもちろんピッツァもウマイ。ローマっ子が集まり雰囲気が楽しい。主人のルチアーノの活気のあるローマ弁が耳に心地よい。味、時間と共に質が高いのだ。

10年前イタリア語の勉強のためにこの地を訪れた時、このごく近所にホームステイした。大家のおじさんに教えてもらったのだがこれが大当たり。二週間の滞在中、昼と夜パーフェクトにこの店で飯を食った。メニューはひととおり制覇し、すぐさま常連仲間に入れてもらった。ルチアーノは僕に興味を持った。観光客だと思っていたら毎日昼夜来るし、なにやらイタリア語も喋る変な外国人、周りのテーブルの客の迷惑も顧みず議論を吹っ掛けている。そんな僕が日本人だと知って話しかけて来た。「ナカタは頑張っているね」こんな時スポーツ選手の凄さを感じる。政治家、作家、俳優いわんや音楽家の名前など出て来たためしはない。一番先に出るのは決まってスポーツ選手の名前。特にイタリアはダントツにサッカーの国である。この時からこの店ではナカタと名乗っている。

夕刻ルッツィに到着。店は相変わらず繁盛していてルチアーノの甲高い声も店の二十メートル手前でもう聞こえてきた。ルチアーノ・パヴァロツティにも負けないリリコスピントだ。二年ぶりの再開。抱き合ったがキスは勘弁してもらった。味?全く変わらない。

評価 秀


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コロッセオのすぐ東側。夜はいつも賑わっている。

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そのまま進むと聖クレメンティ教会の真ん前にトラットリアのネオンが見える。


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<ルッツィの中を覗く>
相変わらずはやっている。仲間に入りたいが僕の指定席は表の歩道に並んでいるテーブルだ。フレッシュな空気の中でストーブにあたりながら食う。大雨でも構いやしない。
<ルッツィの主人ルチアーノ>
早速やって来た。Benritornato NAKATA! Tanto Tempo no!Per lavoro o vacanza?ここに来るとしみじみローマに帰って来たんだと幸福感に包まれる