ヘルベルト・フォン・ホリヤンの徒然クラシック -6ページ目

秋の文化庁の仕事はじまる

 いよいよ秋の文化庁の仕事はじまる。神奈川フィルは本公演だけではなく事前指導である、ワークショップも指揮者が同行する。低学年、(1年~3年)と「おもちゃの交響曲」、高学年と「ペルシャの市場にて」を合奏し、児童、生徒達が作った歌を合唱する。いずれも一流のプロオーケストラと共演するという夢のようなコンサートである。そのコンサートをより感動的なものにするために、指揮者堀俊輔と、神奈川フィル団員、ホルン大橋晃一、打楽器平尾信幸、事務局員2名が学校を回るのだ。


 この事業、よくまあ今年も実現出来たものだと思う。読者もご承知のとおり、昨年はいわゆる“仕分け”の嵐が吹きまくった。限られた国家予算から無駄を排除しようという政府、民主党の動きである。


 判定結果は「限りなく縮少」。青少年が優れた芸術に触れて感動することは無駄と判定されたのだ。


 確かに世の中には現実的に困っている人がいるだろう。音楽に関わっている僕でさえ、消えてゆく空気のようなものでなく、病院や道路など、形となって残るものに使ったほうがいいのではないか、と思わないでもない。しかしちょっとの差でやはり青少年には一度でいいから本物に触れさせ、なんだか心がドキンドキンするぞと感じさせたい。


 立派なビルディングを作る前に、人間を形成するべきなのだ。それには何かに触れてドキンドキンする心が必要なのだ。感動する人間はどんな道を歩んでもいい仕事をするだろう。音楽は意外と安価だ。若き日に聴いた音楽を、目を細めて語る年寄りがあちこちにいるではないか。一度心の中にしっかりと納められた感動は持ち運び自由。賞味期限なし。それどころか年を経るごとに熟成される。


 多くの議論が重ねられた。学問、芸術のこの国における捉え方として、多方面から意見が投げかけられたのは、大変意義深かったと思う。幸いこの事業の必要性が認められて、我々音楽家は今年も全国を行脚出来ることになった。

演奏会

 なかなか涼しくならんが、カレンダーは秋、いよいよ音楽シーズンの到来。ホリヤンの稼ぎ時がやって来たのだ。猛暑を乗り越えた気力で頑張るで。


 まず直近。十六年ぶりに福岡県添田町に九響と共に訪れる。添田町は筑豊のまだ奥の奥、英彦山の麓の町。そこにはオークホールという響きのよいホールがある。十六年前、地元の合唱団と九響と合唱曲「そえだ」を歌ったことが懐かしい。今回はチャイコフスキーのピアノ協奏曲を中心とするプログラムで合唱はないが、あの時一緒に歌った人達と再会するのが楽しみだ。



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 次に文化庁公演。会場近所の読者の方、是非来てください。私の控え室はほとんど校長室です。



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神奈川フィルハーモニー管弦楽団文化庁公演日程。二時開演。会場に確認のこと。




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中部フィルフィルハーモニー交響楽団文化庁公演日程。開演1時30分。会場に確認のこと。

大切な写真(2)

「初めて第九を振った時のプロフィ-ル写真」

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1984年11月 。東京目黒権之助坂の写真館で撮影。


芸大指揮科四年生、卒業を間近に控えた頃、慶應のオーケストラから第九の指揮依頼が舞い込んだ。飛び上がって喜んだ。指揮を志した一番のモチベーションは、いつか第九を振るんだ、という熱いものだったからである。


プログラムに載せる写真を送って欲しいと言う。そんなものはない。演奏会に出るなんてずっとずっと先のことと想定していた。しかし写真を撮らねばならぬ。だがエンビはもちろん、タキシード、蝶ネクタイもない。もしそれらを新調するとなると、ウン十万円必要になり、当時生きて行くだけで精一杯だった僕には到底無理なことであった。


有り合わせでなんとかしよう。五年ほど着古した安もんの紺ブレザーがあるではないか。白のタートルネックシャツを着てこましたれ、染みはあるが上着を着れば隠れる。小澤征爾さんもタートルでカッコいいじゃないか。鏡を見るとなんとかなりそうだ。下半身は写らないのでボロのジーンズのままでよい。


さて写真屋さんだ。友達に尋ね回った。その頃結成した学内のオーケストラ、「ホリヤンとペロリンフィル」のチェロトップのM嬢が「ホリヤン、うちの近所にいい写真館があるよ」と教えてくれた。昔ながらの町の写真館だったが落ち着いて撮れた。


出来上がりはどうだろう。毛がふさふさして撮れている。実はその当時から、ハゲはあまり気にすることないよと、気になることを仲間から言われていた。髪の毛は若さと、前途洋々を表す。写真屋さんの技術に感謝。僕が最も気に入っている点は「眼の輝き」だ。今は腐った魚のような目になってしまったが、若い時は「君はいい目をしているね。特に棒を振っている時は」と言われたもんだ。この画は数少ない僕の長所を捉えてくれていて嬉しい。


この写真二枚焼き増しして、直後の仙台フィルのオーディション、二年後東響入団の際にも使って、成功するゲンのいいものになったので数年間、看板に偽り有り、とクレームがつくまで使い続けた。写真館は現在牛丼屋になっている。


演奏会の記録。
1984年12月20日。練馬文化センター。慶應義塾ベートーヴェン協会管弦楽団。同合唱団。ソプラノ渡辺美佐子、アルト尾高綾子、テノール土師雅人、バス多田羅迪夫。指揮、堀俊輔。



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参考写真:3D鑑賞用メガネを着けた最近の筆者。

大切な写真(1)

 誰でも大事にしている写真があるはずだ。仏壇の上にはご先祖様の、机の上には家族の、定期入れの中には恋人の写真があり、アルバムの中にはそれこそ、その人の歴史が詰まっている。旅先で凍えるプラットホームで列車を待つ時に愛する人の写真を取り出して眺めるだけで、一瞬寒さを忘れたことがあった。いいことがあった時、亡き両親の写真に報告すると、良かったね、と微笑んでくれたこともあった。これから何点か僕が大事にしている写真を公開しようと思う。自分が撮った自慢の写真から、もらったもの、その他色々あるが、基本的には見ると嬉しくなって元気が湧いて来る写真だ。


「朝比奈隆先生、山本直純先生と一緒に」

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左より山本直純先生(54才)堀俊輔(36才)朝比奈隆先生(78才)1986年8月、蒲郡にて



 この写真は我が家の飯を食べる所にパネルとして架けている。両先生と一緒に飯を食い、飲んでいる気分になって楽しい。二人は座談の名手だった。どちらか一人でも話しが弾み、座が盛り上がるのに、二人が揃うともうそこは笑いの渦と涙である。そして彼らと同じ職業、指揮者になれた幸福感に包まれる。音楽家としての彼らに対する深い尊敬の念が根底にある。


 1986年、プロオーケストラ指揮者の会である「日本指揮者協会」(会長 朝比奈隆)に入会した。今はそうでもないが、その時分協会に入るのはなかなか難しかった。基準をクリヤーして入会出来た時、嬉しかったを覚えている。最初の夏の親睦旅行にはもちろん参加した。この世界の先輩指揮者達が沢山集まり、とりわけ朝比奈、直純両先生に、会えて良かったね今日から仲間だよ、と直接声をかけてもらった時は天にも昇る幸福な気持ちになった。一緒にフリチンで風呂に入り、当たり前やけど・・・僕が朝比奈先生の背中を流している間、直純先生は湯船に頭から飛び込んでハシャイでいたなあ。


 この時のことを1997年3月6日付け静岡新聞コラム「窓辺」に書いた。 ・・・直純さんは、かつての「大きいコトはいいコトだ」のコマーシャルでの、いささか型破りで、コミカルなイメージが浸透しているが、プロの世界では、その恐るべき音楽的才能に対して、誰もが畏敬の念を抱いて接している。僕にとっても、芸大指揮科の大先輩として、常に目標としている人である。作曲にも抜群のセンスを見せる。フーテンの寅さん映画が四十八作もの超ロングランを続けることができたのは、渥美清の芸、山田洋次の演出もさることながら、山本直純の音楽も、大きな役割をはたしていると思う。


 指揮者の集まり、日本指揮者協会の年に一度の親睦旅行に行った時のこと。ある観光地で、朝比奈先生、ナオズミさんと共に三人で歩いていたところ、向こうからおばあさんがスタスタと寄って来て、「やっぱりテレビで見た指揮のセンセや! 孫がおたくのファンやねん。写真一緒に撮ってちょうだい」とナオズミさんを誘った。それはいいのだか、なんと朝比奈先生に「オッチャン、シャッター押してんか」。先生困惑して「私、メカにはどうも不案内で」「あのな、これ押すだけやからアホでも撮れるで」。さすがのナオズミさんも焦り出して、僕がカメラを預かって、コトなきを得た。文化勲章受賞、朝比奈隆先生のその時のお言葉。「ナオズミは偉いね。クラシックをここまで広めることができたんだ。われわれは彼の恩恵を受けていることを忘れてはいけないよ」


楽しかった夏の思い出、 お二人のこと亡くなったとは思っていない。

奈良「おかる」のお好み焼き

 「奈良に美味いもの無し」と大阪の人は昔から揶揄したものだ。観光客、一見客相手に適当なものを出す店は確かに多かった。中華料理屋かなと思って入ると、寿司カウンターがあり、オッサンがにぎり寿司やバッテラを皿に乗せている。そこに座っている家族連れといえばチキンライスを食い、ラーメンをすすっている。テーブル席ではうどん、親子丼。要するになんでもいいのだ。食い倒れの町で育った者としては、何といい加減な商売なのか、と少々軽蔑していたが、今では奈良を思い出す時、この光景は懐かしく感じる。


 そんな中で文句たれの僕を感涙させる専門店もある。お好み焼きでこの店を越える店はまだない。


 近鉄奈良駅の地上に出ると噴水があり、そこにオワシマスのは行基はん。そのお人には全く用はなく、そこを右に曲がると東向商店街、真っ直ぐ二百メートル歩いて左側、即ち南都銀行本店の斜め向かいに「おかる」はある。


  「ブーッ、ギー、バタン」(自動ドアの音)「いらっしゃいませ!」店内はいつも活気に満ちている。従業員達もてきぱきと働いている。私語をしている従業員がいたら、それだけで帰らしてもらう。


 「ママ呼んで」年齢不詳の元気なおばちゃんが現れる。「まぁセンセ!よう来てくれはりましたなぁ。お元気そうで何よりです。なんちゅうても健康、健康が一番。いやホンマ!」「ママご機嫌さん、相変わらず年より若いな、年なんぼか知らんけど。」「アリガトございます。今日は何焼かせてもらいましょ?まずはチメたいビールでっしゃろ。夏はホンマに暑い」「あたりまえや。特に奈良はな」 こんな会話が、ああ、奈良に帰ってきたなぁと心を和ませる。

 「おかる」の女将、小山初江さんに初めて会ったのは30年以上前のことだ。当時、今はなくなってしまった登大路町、奈良国立博物館前の、超有名かつ超ボロ宿「日吉館」に常宿していた。奈良を愛する人が泊まる宿として名を馳せていたが、日吉館党の人々は夕食後、東大寺を散策し、八時の大鐘を聞いて奈良町に戻り喫茶店「アカダマ」でダベるのが常であった。僕はある時そこから離れ、前から気になっていたお好み焼き屋に入った。


 閉店間際の客を親切にもてなしてくれた。


 「おかる」のお好み焼きは、ふわふわの芳ばしい絶品であった。手際の良いコテさばきで焼いてくれたのがホンマに若かった、初江さんだった。「うちでは焼く時フタをかぶせますねん。押さえつけたらアキません。」なるほどね、押さえつけずに被せてあげるか、これは応用出来る。


 これを機会に奈良に行くとまず「おかる」に顔を出した。そこに荷物をおいて奈良を歩き回る。ヘトヘトになって戻り、お好み焼きを食う。「センセ、今日はどこへ行ってきやはったん?」「桜井の観音さんや、ええ顔してはったで」来日した音楽家達も随分連れて来た。彼らに会うと、春日大社や東大寺の思い出より先に、「おかる」のお好み焼きをコテで楽しく食べたことを話題にする。


 初江さんも僕のファンになってくれた。ある時演奏会に招待した時、楽屋に現れた初江さんはドレッシーな美しい淑女であった。その変貌ぶりに目を見張った。汗を流す女将、美しい初江さんどちらも大好きだ。


  「おかる」の焼きそば、お好み焼き。評価 秀



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<まずは焼きそばから>

シンプルなものがよい。豚入り焼きそば。中華麺がまた美味い。



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お好み焼きはコテで食うべし。テコと言う人もいるがこれはコテである。




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ふっくらと焼きあがったお好み。マヨネーズは邪道だと叫んでいる僕も「おかる」ではおもいっきりかけてもらう。もちろんソースもベトベトに。




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アチチチッ、たまらんで人生でこんな至福の時はない。




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デザートは隠れた逸品、自家製わらび餠。奈良のわらび餠は美味い。しかしここのは格別だ。手で崩してモコモコ、プリプリしたものにきな粉をかけて食う。




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入り口に架かる。習字教室からの寄贈額。大和風の書体がいい。




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二十年前に書いたホリヤンの色紙が飾ってある。嬉しいじゃないか。奈良「おかる」は僕の味のふるさとと書く。




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また来て下さいね。初江さんは大の写真嫌いなので、仁子ちゃんがお見送り。

小さな旅「錦帯橋と名人ガイド」

 7月初旬、広島平和コンサートの練習の合間を縫って、岩国に足を伸ばした。


 広島駅から山陽本線に乗ると40分ほどで岩国駅に到着。山口県と言っても広島の経済圏である。歴史、工業の町という点では広島と共通するが、ここには米軍岩国基地があり、心なしか横文字が目立つ。駅前から迷わずバスに乗り、錦帯橋に直行。約20分で到着。料金240円。


 停留所のまん前に錦帯橋が美しい姿で架かっていた。前方の山の頂きには岩国城が乗っかっている。なんという珍しい景色であろうか!世界でもあまりお目にかからない風景である。



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<錦帯橋と岩国城とイケメン>

しかしなんで俺ってこんなにキマッテしまうんやろ?ホンマ申し訳ないワ。


 岩国は江戸時代、吉川家六万石の城下町。しかし二百七十諸侯の中で実に特異な存在であった。吉川家は毛利元就を祖とする名家であるが厳密には大名ではない。形式的には毛利家の家老である。しかし十万石の格式を許され、しかも城主格という遇され方。大名であって大名でない、摩訶不思議な家格が吉川家の個性を育み、岩国の風土を作りあげたのてはないか? 錦帯橋の独特の美しさも、このような歴史的な背景から生み出されたのである。


 初代吉川広家から数えて三代目の広嘉の時、延宝元年( 1673年)美しい五連のアーチ橋が完成した。この名橋はたちまち評判になり、庶民はもちろん、山陽道を往く、参勤交代の諸大名もわざわざ迂回して、錦帯橋を見物してから江戸に向かったと伝えられている。


 川に降りて橋の下から写真を撮っていると、オジさんが「シャッターを押してあげましょうか?」と声を掛けて来た。僕は身構えた。観光地によく出没する、親切そうに装い、法外な値段でものを売り付けたり、怪しげな店に連れて行ったりする手合いかも知れない。・・・以前エジプトはギゼーの大ピラミッドの洞窟内での出来事を思い出す。写真撮影禁止の貼り紙の前に、厳しい顔の監視員が立っていた。突然ニコニコ顔で近づいて来て「コンニチワ、ドモアリガト、カメラオーケー」写真を撮ってもいいというのだ。躊躇しているとこちらのカメラを取り上げて一枚僕を撮った。なんだか分からないけど礼を言って立ち去ろうとすると「チョットマッテクダサーイ、シェンエンクダサーイ、ナンデモシェンエン、ドモアリガト」僕の答えはこうだった「あほんだらボケナス!」五千年前のご先祖様を食い物にしているこのエジプト人が許せなかったのだ。しかしこの一枚実に良く撮れていた。


 この人は全く怪しい人ではないことはすぐ分かった。胸に「ボランティア松岡」の名札。「お名前の草かんむりに部と書いて何と読むのですか?」「しとみと申します」「ホンマにボランティアでやってはりますのん?」「はい、協会から交通費として五百円頂いているだけです」



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<観光ボランティア松岡蔀さん>

「しとみ」とは珍しい名前だ。辞書を引くと、日よけ、日光や風雨をよけるためのあげ戸、とある。


 僕は少々歴史にはうるさい。かねてから疑問に思っていることを質問してみた。するとなんでもすらすらと答えが出て来るのである。


 「巌流佐々木小次郎は錦帯橋でツバメ返しを編み出したと言われているがこれホンマ?」「全くの創作です。村上元三先生が最初に書き、続いて吉川英治先生が美剣士にしてしまいました。第一、巌流島の決闘の時は錦帯橋はまだ出来てませんから」


 これで松岡さんに対する信頼は絶大なものになった。身の上話もして頂いた。岡山で生まれ、広島で働いた。今は終の住みかとして岩国を選び、観光ボランティア協会の会長として活動されているそうだ。会長と聞いて、成る程なと思った。「今日はこれから広島のタクシー会社の方々が見学に来られるんです。どうぞ岩国を楽しんで下さい。」


 松岡さんと別れて、五連のアーチをゆっくりと渡った。円弧の上と下では景色が変わる。何と楽しいことよ。眼下を流れる錦川が美しい。鮎釣りの人も二、三人。夜には鵜飼も行われるらしい。ケーブルカーで山頂に行き、岩国城天守閣からのパノラマを心ゆくまで堪能した。



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<眼下を流れる錦川>

水量多し。流れも早し。延宝2年流出、再建後、276年不落を誇った奇跡の名橋も昭和25年のキジア台風で流出した。昭和28年に再建、平成16年架け替え。



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<岩国城>

三層四階の物見を置く、桃山風南蛮造りの山城。元和元年(1615)、幕府の一国一城令により、完成から僅か7年で破却。昭和37年南側に移動して再建。



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<岩国城天守閣からの絶景パノラマ>

錦帯橋、錦川、岩国市内、岩国基地、瀬戸内海の島々を一望。


 下山して辺りを徘徊していると、張りのあるガイドの声がする。観光客の一団が近づいて来たのだ。僕の特技はグループの一員を装って、ガイドを盗み聞きすることである。チャンス到来とばかり紛れこんだところ、ガイドのおっちゃんがマイクで「お客さん、また会いましたね!」ギョッとして顔を見たら、錦帯橋で話しした松岡さんだった。「一緒に周りましょう」


 本領発揮の松岡さんのガイドは素晴らしかった。カッコよかった。声がよく響く声楽家であり、グループの先頭に立ち、キビキビと案内して行く様は、有能な指揮者を連想させた。「今日は松岡さんに会えて良い日になりました」松岡さんも嬉しそうに握手で答えてくれた。



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<どこかで聞いた声だと思ったら>

松岡さんの名調子に聞き惚れる。



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<巌流佐々木小次郎ツバメ返しの像>

小次郎は越前地方の産で岩国とは関係ないが、まあ、あんまり固いこと言わんとこ。作り話と史実が混在してオモロイんやから。それにしてもイチローのスィングみたいやなあ。



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<三つ目眼鏡の錦帯橋>

松岡さんに教えてもらったスペシャルポイント。錦帯橋の影と言っている。



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<平清に入る>

歴史、風景もええけどやっぱり生ビールの味はサイコー。さあ仕上げに岩国寿司を食おうか。



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<岩国寿司>

岩国の打ち上げはこの一品に限る。大人数分を作って小さく一人前を出す。カラフルな彩りが食欲をそそる。800円。

毎朝の課業

 前の晩どんなに飲んでも朝の頭は冴えている。その冴えがなくならないうちにピアノに向かう。バッハ、ロ短調ミサ、キリエを弾き始めると、もうバッハが降りて来て僕の横に座っている。キリエはどんなに忙しくとも、時間のある時は一曲でも多く音にする。大バッハとサシで語りあう大切な時であり至福の時である。最近この習慣が身につきシメタと思っている。


 ただお勉強のためにだけやっているのではない。来年4月24日ミューザ川崎シンフォニーホールで行われる、合唱団「アニモKAWASAKI」定期演奏会でこのロ短調ミサを指揮するための準備である。


 ロ短調ミサは「マタイ」「ヨハネ」両受難曲と並ぶ大作であるが、演奏するものにとっては、技術的に格段に難しい。


 1996年6月9日。紀尾井ホールにおいて、オラトリオ東京定期演奏会で初めてこの曲を指揮した。合唱、オラトリオ東京。オーケストラ、東京交響楽団。ソプラノ佐竹由美、手嶋真佐子。アルト、郡愛子。テノール、五郎部俊朗。バス、宇野徹哉。というキャスティング。


 粒ぞろいの歌い手が揃うオラトリオ東京でさえ練習は難航した。「高ミサ」と呼ばれるこの曲が本当に高く聳えるミサであることを身をもって実感した。本番の演奏をある高名な音楽評論家が「音楽の友」誌上で「この演奏は堀俊輔のバッハである。」と酷評された。久しぶりにそのライブCDを聴くと、確かに未熟な所は散見されるが、合唱とオーケストラの音が生きている。バッハの神々しいサウンドに満ちている。堀俊輔のバッハも捨てたもんではない。少なくとも表面的な関心を満たす程度の浅いものではないことだけは自負出来る。


 バッハ作品は、愚直なまでに楽譜をしっかり読み、一つ一つレンガを積み重ねる如く音楽を築きあげて行かなければ、バッハはその姿を見せてくれないのである。


 最近、譜面を見ていると楽譜が踊っているように見えて来た。練習で「バッハは20人も子供を作った精力家だ。僕にはこのオタマジャクシ達が、元気に泳いでいるバッハの精子に見える。もっと生命力に溢れた演奏をしなくっちゃ!」と言ってしまって女性団員のひんしゅくを買ってしまった。でもそう見えたんだ。


 今回心強いのは、世界的バッハ研究家、礒山雅先生に公演アドバイザーになって頂いたことだ。礒山先生は僕が勝手に一方的に私淑申し上げている先生であり兄貴分である。今よりもっともっと未熟な時から応援して下さっている。


 特にシューマン「楽園とペーリ」を毎日新聞月間第一席に推して下さり、その評は「オラトリオの概念を変えた演奏」というものだった。どれだけ励みになったことだろう。僕の一生の誇りとする一行である。


 先生にはその後国立音楽大学のオーケストラの教員にも推して頂いた。して頂いてばかりでお返しするものは何もない。良い演奏をして喜んで頂くことが一番であることを信じて研さんに励もう。


 座右にあるのは先生の名著「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」東京書籍刊。昭和60年4月1日初版。何度読み返したことだろう。読み返すたびにバッハが好きになり、読み返すたびにバッハを演奏したくなる。 今度、先生39才のこの労作を加筆し、新たに講談社学術文庫から同じタイトルで出版され
た。早速送って頂いて感激だ。


「マタイ」「ヨハネ」の両受難曲に比較して「ロ短調ミサ曲」は、いっそうの客観性を備えた、厳しく崇高な音楽である。コラールのような素朴な民衆的楽章はもはやなく、高度な技巧を駆使しての高い芸術的表現に、すべての演奏者が向かい合わなくてはならない。これこそは宗教音楽家としてのバッハの活動の総決算を示す金字塔であり、バッハを愛する人のたどりつく、究極の世界であろう。
-バッハ=魂のエヴァンゲリスト- より



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朝のピアノにはバッハが乗っている。ますます頭が冴えて来る。左から新バッハ全集ベーレンライター版。ヴォルフ校訂ペータース版。オルガンパート譜。見なければいけない楽譜は山とある。だか良い演奏出来る方法を書いた本はどこにもない。




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僕のカバンの中にはいつでもどこでも、来年の4月24日までは、ロ短調ミサのスコアとこの二冊が入っている。


還暦ダアッ誰がジャアッ俺や

 今日0時、還暦を迎えた。長生き出来たものだ。父親は小学五年の時、四十九歳で亡くなっているから、もうそれより11年も長く生きてしまった。オーケストラの楽員であったなら、今日この日をもってめでたく定年ということになるが、指揮者にはない。死ぬまで振り続けるのだ。


 還暦、干支が六十年ぶりに元に戻る年。僕は、庚寅、それに五黄の星。五黄の寅は昔から大暴れすると言われている。確かに指揮台上と寝相では暴れているので当たっていることは当たっている。


 全てゼロに戻そう、あの未熟だったが大きな夢を抱いていた、若かった頃に精神だけは戻そう。仕事も増えた、金も入る、人から先生と呼ばれるようにもなった。しかし今のお前は若かった頃目指していたお前か?と問われれば、ぶれてはいないか? 幸いまだ体は動く。つまらぬプライドをほおり投げ、あと1センチ記録を伸ばしたい。


 今日は再スタートの日なので特別な日を作ろう。 5時起床。マバユイばかりの朝日。ロ短調ミサのクレドをさらう。


 録りためたテレビイタリア語、ドイツ語、フランス語を見る。ヨーグルト、あんパン、コーヒーで朝食を平行。


 8時いつもより早めに家を出る。8時40分鶯谷駅着。いつもは上野駅でコーヒーを飲むが、今日は寛永寺横、両大師、国立博物館前を通り芸大のコースをとる。芸大生だった頃の通学路だ。ちっとも変わっていない緑の世界である。9時30分尾高忠明氏指揮芸大オケの木曜コンサートのゲネプロを見る。尾高氏に久しぶりに会い挨拶。指揮者の広上淳一氏も来ていて彼とも握手。指揮者達は例外なく元気だ。


 10時40分大合唱授業開始。芸大第二ホール。学生達にはますます伸びてもらおうと、今日は特に思って、いつもより厳しくトレーニング。ヘタクソ、アマアマ、ふにゃふにゃコーラス、どシロート、棒見ンカイ! 何やっとんねん! オンチ! それでよう芸大入ったな! 僕に大阪弁が出だしたら要注意とあらかじめ学生達に言ってあるので、音楽はどんどん締まってくる。これぞホリヤンの大阪弁効果。今日からは各学年ごとの対抗練習を取り入れた。指揮者も学生だ。二年生が一番遅れているぞ、と散々罵った後、今日はこれまで! お疲れさんと宣言したとたん、ホールが暗くなった。


 ハッピーバースデーツーユーハッピーバースデーツーユー、ハッピーバースデーデアホリヤンと学生達が歌い出し六本の赤いローソクが灯されたバースデーケーキが運ばれて来た。ハッピーバースデーデアホリヤーンで吹き消せと学生指揮インペクの大塚君がフェルマータして待っている。俺はこんなことに弱いんだ。涙が出て来て全て消すのに時間がかかった。消したところでめでたくハッピーバースデーツーユー。


 いつどこで僕の誕生日、還暦を知ったか知らないが、なかなか泣かせることをやるよるわい。それにこの歌声、練習中にはさっぱり聞けなかった見事な声だ。ケーキも嬉しいがこの若者達の美しい声こそ最高の贈り物であった。


 こみ上げてくるものが大きくて、お礼の言葉は来週にとボードに書いて失礼した。


 待ち合わせしていた、民音、口中氏と上野公園内の鰻屋に入った。学生達がこんなことをしてくれましてねえ。ホリヤンは人気者なんですね、いや僕が指導しているつもりでいて、結局彼らが僕を温かく包んでくれていたことが分かりましたよ。嬉しくなって「今年度は全員、優を与える」と叫んでしまったことも、後の祭りだ。まあいいだろう鳩山だって財源もないのに子供手当てを振る舞っている。何しろこちらは今まで感じなかった、学生が好きになる心が芽生えて来てしまったのだ。厳しく厳しく!


 鰻屋の迷惑をも顧みず感激をもう一度体験。場所を変えてもう一つのプレゼントも開けようと思ったが、帰ってからの楽しみとした。学生達のお陰で幸福な教師も体験出来た。私は0才、明日からも楽しい人生が待っているだろう。神よ我に苦難を与え給え。



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学生達の心のこもったケーキ。実はこの年にしてバースデーケーキで祝ってもらったのはこれが初めて。




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余り嬉しかったのでもう一枚。ローソク一本が10年かあ。




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あまりに嬉しかったのでもう一枚。鰻屋の女将もこの場違いな行動を許してくれた。この店は上野東照宮横の「伊豆栄」食べたメニューはお昼限定、幕の内弁当。




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サンマルクカフェに入ってなめるように眺めいった。ワインかなあ?かなり重いから金の延べ棒かなあ?いずれにしても赤い包装紙が洒落ている。

生麦事件を歩く(2)

 京浜急行生麦駅に戻る途中に瀟洒な建物がある。ああ、ここが吉村先生が書かれていた市井の生麦事件研究家の家か。表札には 「文久2年 生麦事件参考館」とある。年号まで書いてあるのは珍しい。如何に思いが深いかが分かる。


 すると突然人が出て来た。ゴミを出しに来たのだ。恐る恐る聞いてみた。


「ここの方ですか? 今日見学できますか?」


僕の顔をじっと見て、「予約の電話が欲しいですね。仕方ない、今日時間ありますか? 最低一時間。」


「もちろんですよ。生麦事件のために1日空けたんですから」



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自宅兼生麦事件参考館前の浅海武夫氏。電話には必ず明るい大きな声で「はい、お電話有難うございます。生麦事件参考館浅海武夫でございます。」と応対する。酒屋の主人であった頃を彷彿させる良く通る声だ。



 参考館の中に入る。ところ狭しと資料が並べられている中で目を引いたのは、腹をえぐられ、沢山の傷を負って横たわっているリチャードソンの痛々しい遺体の写真だ。


「オランダ、ライデン大学から取り寄せました。」


 一時間浅海氏の市民講座を収録したビデオを見た。これがまた面白い。つまらない講義を繰り返して授業料をとっている全国の大学教師、客のつかない落語家、講談師、浅海さんに弟子入りしろ! 流れるような名調子、無駄な言葉がまるでない。音楽をさえ感じさせる。ビデオが終わりかけると浅海さんが二階から降りて来た。


「並みの講談師じゃとてもかないませんね」


「はい、私は好男子ですから」


「何でこんな資料館作ったんですか?役所か財団の仕事でしょう?」


「はい、ここをご覧のように、うちは生麦で酒屋を営んでおり、私も家業を継ぎました。ある時一通の手紙が届き、それがきっかけで私の人生も変わりました。」


 昭和四年生麦で生まれ、ここで育ち、その後40年酒屋を経営した。昭和五十一年、鹿児島から訪ねて来た年輩の客を近所にある、生麦事件の碑を案内したそうだ。それから数日して、礼状が届き、立派な記念碑があるのにどうして資料館がないのですか?と書いてあった。浅海さんはそれまで生麦事件にはなんの関心もなかったのだが、この事件が、幕末の重要な出来事であったことを知り「生まれ育った生麦で起こった事件の資料を集めてみよう」と自力で収集。18年かけ、1994年に同館をオープンさせた。資料館でも博物館でもなく、参考館と命名するところなど、商人として生きて来た控えめで、賢さも感じさせる。佐原の伊能忠敬、京都の石田梅岩、大坂の山片蟠桃、などは商人としてしっかりと働き成功して後、学問も大成させた。浅海さんもそんな臭いがする。


 資料集めだけではない。荒れ放題になっていた、横浜外人墓地のリチャードソン達の墓を、募金をして改葬した。僕が元町で意外と美しく、丁重に葬られているなと感じたのは、浅海さんの尽力の賜物だったのである。



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この他にも横浜市から、街作り功労賞などのプレートが門を飾っている。




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十畳ほどの館内には、約150点の資料が所狭しと展示。




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酒屋としても繁盛していたことが分かる。



 毎日参考館に来る応対に忙しい。また全国から講演の依頼が殺到している。楽しい歴史談義は二時間を越えた。呼び鈴が鳴った。


「あっ、予約された茨城大学の先生達が来られたみたいです。」


「それではこれにて」


 家に戻ってもう一度「生麦事件」のあとがきを読んでみた。「事件の現場である生麦町で酒類商を営む浅海武夫氏が、自費で生麦事件参考館を設けていることを知り、そこにおもむいた。中略、研究者は皆無と思っていた私は、浅海氏という地道な研究者がいたのを知ったのだ。私は、生麦村の庄屋が丹念に記した日記を残しているのを耳にしていたが、氏の斡旋でそれを入手することもできた。日記には事件の概要が簡潔に記され、さらに毎日の天候その他がもれなく記されていて、小説を書き進める上で大きな力となった。」


 吉村先生が浅海さんを、単なる町の郷土史家ではなく、研究者として敬意を表していることが分かって嬉しかった。これからも体の続く限り生麦事件を語って行くそうだ。また、なんと音楽を愛好し、毎年サイトウキネン・フェスティバルには必ず足を運んでいると言う。嬉しいことに、これからはホリヤンのコンサートにも来てくれるそうだ。


この項 終わり。



ホリヤンのブログ
楽しい歴史談義の上、沢山の資料もお土産に頂いた。記念に封筒に署名もしてもらった。訪れる時は必ず予約の電話をすること。突然飛び込むような非礼は慎まなければならない。

生麦事件を歩く

 小さい頃から、歴史の場所に身を置くのが好きだった。歴史的事件、建造物、何より人物である。歴史の主人公達が、我々と変わらない一人間として生活していた所に立つと、まるで映画のワンシーンのように歴史が蘇ってくる。


 音楽家の感覚としても、ウィーンの安宿にいてモーツァルトやベートーヴェンの、ライプツッヒの街角のカフェでバッハやメンデルスゾーンのスコアを広げると、自宅の机で勉強している時とは違う響きが鳴るから不思議である。時代こそ違え、彼らと同じ空気を吸っているからだろう。


 4月の日曜日、生麦事件の現場に足を運んだ。


「生麦事件」
江戸末期の外人殺傷事件。1862(文久2)8月幕政改革を施行した島津久光が江戸から帰国の途、横浜付近の生麦村を通過の際、騎馬のイギリス人4人が行列を乱したという理由で、薩摩藩士が一人を切り殺し2人を傷つけた。イギリスは幕府、薩摩藩に犯人の処罰と賠償金の支払いを要求、幕府は10万ポンドの償金を支払ったが、当時攘夷運動が最高潮であった薩摩藩はこれを拒否。そのため翌年報復のためにイギリス艦隊が鹿児島を砲撃、その後薩摩藩は開国、対英接近の方針に転じた。(角川日本史辞典)


 京浜急行生麦駅を降り、第一京浜国道を越えると、旧東海道がほぼ昔の位置に通っている。近くには「キリン横浜ビアビレッジ」があり、生麦酒(生ビール)とシャレているが、生麦という地名は江戸時代からある古いものだ。ここで近代国家成立のきっかけとなる重要な歴史的事件が起こった。


 僕がこの事件の名にひかれて興味を持ったのは小学生の頃だった。


 「生麦、生米、生卵、おもろい地名やな」子供心に思ったのは、「女を含む4人の外国人を無礼打ちにし、1人を殺すやなんて、薩摩の侍は野蛮やな、それに久光という殿さんは、京都では寺田屋騒動を起すし、江戸からの帰りには生麦で事件を起す、お騒がせな人やな」


 その後中学の修学旅行でバスガイドが「左に見えますのが外人墓地でございます。生麦事件のリチャードソンはじめ三人のイギリス人も眠っておりまーす」と説明したとたん、僕の眠っていた歴史感覚も蘇った。今度東京に来たら彼らの墓参りをしよう。


東京に住み始めて、いつでも行けると思ったのがいかん。実現したのは昨年だ。それも偶然元町を歩いていたところ、外人墓地の元町口から見つけたのだ。墓参りは柵越しにしか出来なかった。しかしながら意外に綺麗で美しく、丁重に葬られているような印象を受けた。日本人の手厚い供養のお陰でリチャードソン達は痛かったろうけど今では傷も治って三人で乗馬を楽しんでいることだろう。


 さて、生麦の現場を歩こう。手には我が文学の師匠(勝手に思っている)吉村昭先生著「生麦事件」新潮社刊、を持ちながら、リチャードソンが、供頭、奈良原喜左衛門に最初の一太刀を浴びた地点から、腹を押さえ逃げ臓物を落とし、ついには落馬し、供目付、海江田武次にとどめを刺されまでの約700メートルをゆっくりと音読しながら歩く。その距離は思ったより長くリチャードソン達の苦痛て恐怖はどんなであったろうと推察できる。


「列が乱れ、馬が荒々しく足をはねあげた。奈良原の口から叫び声がふき出し、刀の柄をつかんでリチャードソンの脇腹を深く斬り上げ、刀を返し爪先を立てて左肩から斬り下げた」(吉村昭著「生麦事件」)


帰りにもう一軒寄ってみたいところがあった。生麦事件を研究し、私費で資料館を作った人物がいることを、小説「生麦事件」のあとがきで知ったからだ。ここでもいい出会いをした。この項 続く。



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横浜方面から来たチャリンコに乗ったオッサンがリチャードソンに見えた。「無礼者!」
「血が飛び散り、激しい悲鳴があがった。小姓組の者たちがそれぞれ抜刀し、マーシャルたちに斬りかかった。馬はいななき、脚をはねあげ荒々しく動きまわる。マーシャルもクラークも刀を浴び、それぞれ左腕と左肩に傷を受け、血が飛び散った。また、マーガレットも帽子を刀で飛ばされ、髪を切られた。馬の臀部からも血が流れ、馬は数人の小姓組の者を蹴散らし、あたりは土埃で煙った。」 吉村昭「生麦事件」




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吉村昭先生のような、調べこんで、足を運びこんで、泥んこになったあと、緻密な作品を作り上げたい。初版1998年9月25日