土曜日の12時間の停戦時に国連は働きかけてました。
ハマスは24時間停戦受け入れたとしますが、イスラエルは信じないと。
CNN放送だとハマスがロケット弾発射と。

1800人の犠牲者が出てます、もうどこに逃げていいかわからない
失うものは何もないと彷徨い住民、明らかになるのは戦闘の準備。

そんな中イスラエルのネタニヤフ首相インタビュー☆見てました。
どこの国もそこの国の論理で戦います。
アラブ世界で回り中敵の中恐怖の過剰防衛みたいなところがあります。

ハマスは停戦破ってる。。

ガザ支援のお金トンネルをつくるために使った。
(トンネル潰すまで攻撃やまないと思います)
イスラエル側の子供たちを殺害する。
まともな民主主義の国がハマスというテロリストと戦ってる。
民間人がいることがわかってハマスだけ標的にすることはできるのか。
ロケット発射してくる。

ガザ内の病院や学校を隠れ蓑。民間人を盾にしてる。

ツイッターから。
この赤ちゃんの母親は、空爆により死亡。その母親のお腹にいた
赤ちゃんは生き残り、生死の境を彷徨っている。

母親のお腹にいたから、この子は守られた。でも、
「ママ」には二度と会えない。残酷すぎる・・・・
天国からママも涙だと思います・・・・



クローバーパレスチナ難民キャンプで大量虐殺が行われた)サブラー・シャティーラ事件
知りませんでした。過酷な運命に生き抜く彼女の強さ・・・・・ぜひお読みください。

>2014/06/05 【京都】牢獄に6年間監禁された戦うパレスチナ女性、
キファー・アフィフィ氏講演 ~「敵はシオニズム」

「ジャーナリストになることが夢だったが、ペンの力で自分たちの土地
を取り戻すことは難しいと思い、武器を手に取る決心を固めた。

軍事訓練を受け始めたのは、私が14歳の時だった」──。

 1969年にパレスチナ難民キャンプに生まれ、内戦下のレバノンで
抵抗運動に参加。その結果、イスラエル軍に捕まり、収容所送りと
なったキファー・アフィフィ氏が、2014年6月5日、京都市左京区の
京都大学で講演した。

タイトルは「パレスチナ わが愛──難民的生から展望される〈祖国〉と人間」
。アフィフィ氏は、約6年間にも及んだ、過酷な獄中生活に関する話に加え、
14歳という若さで、見たこともない祖国のために武器を持って戦おうと
決意した理由についても語った。

 アフィフィ氏の前に登壇したジャーナリストの広河隆一氏は、
その当時、彼女の母親からの強い要請を受け、アフィフィ氏の捜索
に乗り出している。そして、居所を突き止めると、裁判での解決
に打って出るのだが、何と裁判の前日、彼女は突然釈放されたという。

その理由を、広河氏は「イスラエル側が、自分たちが行ってきた
非人道的な行いが世間に知れ渡ることを恐れたため」とし、
アフィフィ氏を「戦う女性の象徴的存在」と紹介した。

記事目次
14歳で「パレスチナのために戦う」と決意
父親が育んだパレスチナへの思い
「公正な解決」とは何か
退屈という「苦痛」








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「パレスチナ問題を巡る日本メディアの姿勢は、ほぼ、イスラエル政府の言いなりだった」

こう話す広河氏は、「日本の新聞やテレビは、ガザ地区へのイスラエル軍の空爆
について、『パレスチナから打たれたロケット弾を浴びて、
ユダヤ人に多数の犠牲者が出たから、自分たちは仕方なく反撃した』
というイスラエル政府の言い分を、鵜呑みにして報じている」と指摘した。

 「当該時期のイスラエル政府のホームページには、イスラエルがそんな
被害を受けたとは記されていない」と言う広河氏。
イスラエルが「パレスチナから攻撃を受けた」と主張している時期の直前に、
パレスチナに一体何があったか日本の新聞やテレビは調査していない、
と批判を重ねた。「
AFP通信やロイターなどの海外メディアの記事に示されている通り、
当時はイスラエル軍がパレスチナに奇襲を加えており、パレスチナ人が何人も
死んでいる」。

 広河氏は、次に登壇するアフィフィ氏を、
「彼女は、戦う女性の象徴のような人だ」との言葉で紹介し、どんなに厳しい
状況に置かれようとも希望を失わなかった、

強靭な精神を持つアフィフィ氏を客席にアピールした。
14歳で「パレスチナのために戦う」と決意

「1982年に(イスラエル軍の監視の下、レバノンにあるパレスチナ難民キャンプ
で大量虐殺が行われた)サブラー・シャティーラ事件が
あった当時、
私は12歳の少女だった。私たち難民は武器を一切持っていない状況で、
私の目の前で仲間が殺されていった。

その後、1985年にはキャンプ戦争が起こり、今度は私の兄弟や従妹らが
殺された。難民は殺されても埋葬される墓がなく、私の兄弟らは、
他の家族の死体と一緒にまとめて埋められた。

私は約3ヵ月後に、その場所から兄弟らの遺骨を掘り出し、
自分で小さな墓を作って埋葬した。
自分の母親が、そこを訪れることができるように」。

 マイクを握ったアフィフィ氏は、自身のその後の生き方に大きな影響を
与えた体験を、このように述べた。

「ジャーナリストになることが夢だったが、ペンの力で自分たちの土地を
取り戻すことは難しいと判断し、武器を手に取る決心を固めた。

(ファタハの軍事組織に参加して)軍事訓練を受け始めたのは、私が14歳の時だった」。

 そして18歳の時、6人のパレスチナ人の仲間と共に抵抗運動に参加し、
イスラエル軍に捕らえられる。アフィフィ氏は「(パレスチナにある)
狭い独房に入れられ、尋問を受けた。

『何も話さなければレイプする』と脅されたが、
『あなたたちはすでに、パレスチナという民や土地をレイプしているではないか
』と切り返し、自分の手で服を破く仕草をした」と話しつつ、このように続けた。

「その独房がある場所が、パレスチナであることがわかると、涙がこみ上げてきた」。

父親が育んだパレスチナへの思い

 その後、「死の牢獄」の異名をとる、国際赤十字すら入れない収容所
に移されると約6年間に及ぶ厳しい獄中暮らしが待ち受けていた。
電気ショックをはじめとする、ありとあらゆる残酷な拷問が繰り広げられたが、
アフィフィ氏は闘志を燃やし、それらに耐えたという


 私の月経期を狙った拷問もあった。
うつ伏せで床に寝かされ、背中を打たれ、床に付着した経血を拭けと
迫られた。
私は、そういった一切の理不尽に歯向かおうと心に決め、
酷い仕打ちをしてきた相手には、あえて笑みを浮かべることにした


 京大教授の岡真理氏が、「肉体的苦痛のみならず、精神的屈辱が与えられる
拷問に、心が折れそうになることはなかったか」と質問をぶつけると、
アフィフィ氏は「牢獄の外にいる時よりも、中にいる時の方が強くなれた。

耐えることや信じることの意義を学ぶことができた」と力強い口調で応えた。

 岡氏がさらに、「14歳という若さで、ジャーナリストになる夢を捨て
、『自分はパレスチナのために戦う』という考えに至った理由を訊きたい」
と迫ると、「私はレバノンに生まれたが、父は私に対し、ことあるごとに
故郷であるヤジュール村での(イスラエル軍による村民100人余りの)
虐殺事件を忘れるな、と話していた」などと語り、
「父親が自分に、パレスチナを愛する心を植え付けた」と明かした。

アフィフィ氏の父親は、4歳の時に家族とともに故郷のヤジュール村を追われ、
レバノンの難民キャンプに移り住んでいる。

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