{BA0AB68F-AAEB-494C-8C30-FBB37A04E0D6}


 

 

小さい頃、祖父母の家に遊びに行った。

 

はじめは大人しく、広告の裏紙に絵を描いたり、父の子供の頃のアルバムを見たり、

不思議な色の布が付いた埃叩きをスウィングして音を楽しんだり、

マッサージチェアや自動血圧計を試してみたり、庭に出てサボテンや苔の観察をしたりしてたけど。

 

友だちもいない、本もオモチャもない。

TVも昼間で興味を引くものがなくて、段々と退屈になってきて。

 

空想の世界に逃げ込もうとした時に、ふと、

送ってもらう車の窓から小さな公園を見つけたことを思い出した。

 

確かブランコもジャングルジムもあったような。

 

そうなると、もうそのことしか考えられない。

 

ブランコを力いっぱい漕いで、あの空に近づきたい、風を切りたい。

そうしてるうちに誰かがやってきて、

一緒にポコペンやケイドロしようってならないかなぁ。

あっ、ジャングルジムがあるなら高鬼でもいいなぁ。

 

でも祖父も祖母も忙しそう。

 

ひとりで行くって言っても、危ないからって困らせるかなぁって思ったけど

あっさり6時までには帰って来なさいって。

 

嬉しくて、靴のかかとを半分踏みながら意気揚々と家を飛び出した。

 

公園には知らない子たちが何人かいて、

どこから来たと?って背の高い女の子が仲間に入れてくれた。

 

いつもと少し違ったルールでするケイドロも、流行っている言葉も全てが新しくて。心が大きく丸く膨らんで自分の体を出たがっているみたいだった。

手も足も伸ばせるだけ、伸ばしてみようって、自由だった。

 

夢中で遊びながら、ふと我に返った私。

 

祖母の6時までに帰って来なさいね、の言葉を思い出し、

今何時かな?って辺りをきょろきょろ。

 

でも、あれ?いつもの公園にはある時計台が、ここにはない。

腕時計してる子もおらんし。空はまだ明るいけど、大丈夫かなぁって。

 

そこからは時間を気にしながらの鬼ごっこ。

 

体は公園にあったけど、心は祖父母の家にあった。

 

誰のせいでもなく、でも私は不自由だった。囚われていた。

 

その時、自由と不自由ってこういうことなのかなぁって思ったのを覚えてる。

子供だから感覚的にだけど。

 

そんな私は今、

LIVEやプロモーションで色んな場所に行く。

 

家を留守にする、東京を離れる。

根を張って暮らしているところから離れるのは、やっぱり大変。

 

移動の飛行機、新幹線、バス、車、たまーに船って時もある。

美味しいけど体がちょっと疲れ気味になってしまう外食。

快適だけど完全には落ち着けない滞在先のホテル。

 

だけど、おいで!って言ってくれる土地に足を運ぶと、

そんなのへっちゃら!って思うくらいのハッピーがたくさん待っているし、

帰る頃には、自分なりの気づきもあったりして。

 

何より、外の世界にいるって意識が高まるからか、五感が研ぎ澄まされて、

野性的なものの考え方になる、気がする。

 

自分の日々を、他の人の物語として捉えられる軽さ、というか。

 

今私が今求めているもはこれなんだ、大事にしていることってこういうことなんだ、

あの人に会いたいんだ、明日こういうことしたいんだぁ、って。

 

滞りなく全てを進めて行くために、自然とミュートしていた自分の心の声が

聴こえてしまう。自分が本当の意味で何処に今在るのか分かってしまう瞬間だよね。

 

だから、自由って心の状態のことなんじゃないかなぁって。

 

好きな人たちと、好きなところに行って、好きなものを食べていても、

心がそこになかったら、その人はすごく不自由だと思う。

 

でも、これってコントロールの仕様がない場合もあって、本人が1番苦しかったりするから、友だちや家族、大事に思っている人たちがそういう状況になったら待つ。

だけど、大きな砂時計100000個分でも難しかったら、ほんのり、寂しいな。

 

その逆もあるよね。

 

仲良くさせて貰っているお姉さんがいて。

その人は子育てをしながら、大好きな仕事もしていて、自分の時間も忘れないの。

 

でもやっぱり、好きな時に好きなところには行けないし、

大好きな仕事があっても熱が出たって保育園から連絡があったら当たり前だけど迎えに行くし、みんなで集まってもひとりだけ先に帰ることが多い。

 

ある角度から見ると、すごく不自由かもしれない。

 

だけど、すごいの。自分の時間を思いっ切り楽しんでいる時の彼女の集中力って半端じゃない。ニコって笑った時の頬の赤みとか、キラキラしてる瞳とか。

隣で見ていて、すっっごくとびきり素敵。

 

彼女は不自由なんかじゃない、囚われてない、守られているんだなっていつも思う。

そしてその努力がすごいなって。

 

江國香織さんの小説で、母親とふたりで海外旅行をしながら、

昼間のアクティビティをなんとか頑張って楽しんで。

 

本当は意識的にも無意識的にも、夜ホテルから日本で仕事をする夫にかける1本の電話を心待ちにしている主人公の描写があって。

 

離れらないことを知りながら、あえて物理的な距離を設けることで、

より大切なものを大切と確かめているその姿に、私はちょっと病的なものを感じた。

 

この人は、どこにても、地球の裏側にいても、何処までも不自由なんだよね。

多分、近所のスーパーにいても、囚われてると思う。

 

それに幸福って名前をつけてその瞬間が一瞬でも長く続くように願う人、

最初からノーセンキューって人、色んな考えがあって全部面白い。全部正解。

 

私は大切なものを大切にしながら、でもすくっと立っている人に憧れる。

いつもそういることは確かに難しいかもしれないけど、そう心がけていたいな。

 

守られていることと、囚われていることって、

似ているようで、はっきりとした違いがあると思う。

 

うひゃー、久しぶりにブログ書いたらすんごい長くなった。

ここまで読んでくれた人、神。笑

 

最近本当に色んなことがあって。

自分の中で小さな革命が起りまくっている。

 

しあわせ。心が忙しいけど、でも、これ全部音楽にして、表現にして、届けたいな。

 

今週のスケジュールは、特に!嬉しい悲鳴!

 

曲作りも常にしてるし、来年の全国ツアーも発表したしね。

 

がんばろー!