浅野いにおさんの零落を読んだ。

 

何に対してか、はっきり分からないけどひるんだ。そして泣いた。

 

学生時代に「ソラニン」が映画化されて浅野いにおさんを知った。

映画の世界観も好きで、でもその時はまだ漫画まで辿り着かず。

 

少し時が経って、書店をぶらついていた時に浅野いにおさんの名前を見つけて、

あ、ソラニンの人だって思ってソラニン以外の漫画を数冊買った。

 

「虹ヶ原ホログラフ」「ひかりのまち」「世界の終わりと夜明け前」「うみべの女の子」

 

その中でも、思春期全開!!の「うみべの女の子」が強烈に残っていて。

 

誤解されちゃうかもしれないけど、

好きってより、限りなく痛みに近い感覚で自分の中に残った。

 

あの時期のあのヒリヒリする感じを、音楽でもなく映像でもなく、

「絵」で投げつけてくる?訴えかけてくる?この人なんなんだろうって。

 

音楽は、もうどうにもこうにもならない気持ちを、

ギターとか掻き鳴らして、うわー!!!って絶叫したり、歌詞に託せる。

 

目に見えないものを目に見えない形でぶつけられるというか。

 

音楽も映像も容量自体が無限大というか。隔たりがないじゃん。魂直結で自分の体を使う。

 

でも、漫画ってそのどうにもならない気持ちを、形にする。絵にする。

 

ヒリヒリの感覚に目と鼻と口つけて、手足をあげて。自分の体じゃないもの、隔たり、というか媒介というか。(上手く言えない)

静止画でそれをやってのけるって、なんかもうすんごいな!まぢで!ってとにかく興奮した。

 

私は漫画は「ソラニン」から入ってないけど、

その作品から入った人は「うみべの女の子」読んでちょっとショックだったとも言っていて。

 

なんとなくそれは分かる気もしたけど。

 

私は「ソラニン」を読んだ時も、チクってしたけどなぁ。

「うみべの女の子」よりも、痛かった印象。種田の結末にじゃなくて、隣り合わせの痛みって感じがリアルだった。

 

上で書いたショック現象が起きたのは、なんかこう映画のイメージからなんじゃなかろうか。

宮崎あおいさんの甘酸っぱさ、とても好き。

 

その青春の代名詞的な感じをソラニン以降の作品にも求めてしまう人もいると思う。

 

そんな中で、というか、もう浅野いにおさんからしたら、ソラニンの映画化は過去のこととして、なのかもしれないけど、

「零落」を発表できるかっこよさ。

 

すごいなぁ。

 

最後のサイン会のシーンがとても好きです。

 

みんな誤解して、誤解されて、誤解されることを悩んで、でもその誤解に救われたりして生きていくんだなぁって思いました。

 

なんか勝手にとんでもなく、浅野いにおさんについて語りましたが、

そしてこんなに書いといてひどく無責任ですが、深く深く〜は浅野いにおさん知らないので、

ここに書いたことが間違っていたり、違うって思う人がいるのは当然で。

 

でもこんな議論?が、起こる時点でみんな引き込まれているってことですね。

 

くそー、私もいい作品残したい。

 

最近、家で制作してて、打ち合わせに外に出て、

色んな人に会って、話して、面白い。

 

面白いから、悩む、し、傷付くんだけど。

 

容赦ないなー、そっちはどうなのよ?って思うこともあるんだけど、

でもなんか新たなスタートラインに立ったような気もしていて。

 

せっかく色んな人に、色んなものを貰えるところにいるんだから、

通り過ぎず、しっかり目を見てお話ししようと思う次第です。

 

貰うばかりじゃだめだから、音にして返そう、とも思います。

 

スパークしていこう。