ソファの肘掛けに本が山積みになっている。

 

家に遊びに来る友人たちの反応も様々で、

これ全部読んでるの?と手に取ってペラペラとページを捲る子もいれば、

興味無さげにタイトルをざっと見て近況ネタに興じる子もいる。

 

コレ読んだと一緒に盛り上がることも勿論あるし、貸し借りすることもたまに、ある。

 

類友とは良く言ったもので、ここで言う、借りる、は、名目上になることがほとんどで、

友人の本は私の本棚で半永久的に所有されることになるし、私の本は友人が好きな場所で多分所有しているのだと思う。

 

私は本を読みながら、好きと思ったり、良いと思ったりする言葉があると

そのページの端を小さく折る癖があって。

 

本が痛むからやめなさい、と注意されたこともあるけれど、

その癖はハッキリと直さず、今に至っている。

 

だって読書の醍醐味って2度目からがさらに楽しいんだもの!

 

時が経ってその本を読み返した時に、

当時の私にはここが響いた訳ね、と首を傾げたり、

あっ今の私の魂にも同じところが引っかかった!と嬉しくなったり、

19の時には理解出来なかったこの場面にグッと来ちゃったなぁ、と新しくページの端を折ったりして。

 

本は作家さんが書き終わって、書店に並んで、はい、終わりではなくて、

読者の手によって、その後も作られ続けていくのだ。

 

作家さんの書いたこのタイトルの本はこの世に何万冊とあるのだろうけど、

でも間違いなく、私だけの1冊が私の本棚には在る。

 

だから、遠征先で歌詞を作っていると厄介なことになる。

 

あの本のあの場面にヒントがある気がする!と思って、

その地域の書店で同じ本を買い求めても、またはじめから読み直さないといけないからだ。

 

自分の体の中に残っている感覚と本の言葉を早く出逢わせてあげたくて、焦れる。

 

空腹の次に嫌いな感覚かもね。

 

家にいれば、本棚まで歩いて行って、お目当の本を手に取り、

ページが折ってある前後を読めば、すぐにその達成感を味わえるのに。

 

まぁまたそれも素敵なことなんだろうけども。

 

でもだから、私が本を貸す、と言うのはちょっと本当に特別なことで、

その本を読んで、私の感性がどう動いたかそのままその人に公開しているような気持ちになるので、滅多にないのだ。

 

最近は、なんと言うか勘が戻って来たなぁと思う。

 

何の勘なのか分かんない、生きる勘?

 

そもそも、そんなもの持っていなかった気もするしなぁ。

 

とにかく全部、人も物も通過していくものだから、ちゃんと今を生きられたらやっぱり最高だと思います。

 

勘もね、また失ったり、大いに取り戻したりしながらクルーズして行けたらいいな。

 

ちょっと新しい形の愛のパワーを信じてる感じ。

 

咀嚼はこれからだ!