安保法制を巡る議論が、喧しい。しかし、到底参加する気にもなれぬデマゴギー、下品な誹謗中傷が、やたらに目につく。そもそも「戦争法案」とは、何事だ。そんなことを口走る人間の精神の荒廃、感性の枯渇、悪意とを思わざるを得ない。最近の極めつけは、「徴兵制」煽りだろう。安保法案とか集団的自衛権と、いったい何の関係があるんだよ。政策としての徴兵制の是非、合憲性などあらぬ方向に議論を逸らすだけだ。

 そういうことは、ここでは一切論じない。集団的自衛権が徴兵制につながるかと言えば、前提や条件によっては、そうこじつけることもできるかもしれない。しかし、例えば、集団的自衛権を違憲と唱える憲法学者の多くは、現行憲法では個別的自衛権しか行使できぬ筈としていると思う。個別的か集団的かを問わず、武力の発動は一切違憲、自衛隊も違憲だから解散すべしというのは、さすがに少数派だろう。尤も、絶無という訳じゃない、いることはいるんだなこれが。それはともかく、集団的自衛権の行使を認めると徴兵制になるという理屈は、「集団的」を「個別的」に置き換えてもそっくりそのまま成立する。ここがポイントだ。つまり、集団的自衛権の是非の議論に持ち出す話じゃないのだ、そもそも。ホント疲れる。

 法律論とは、「百千の学説より一つの判例」という世界だ。砂川事件判決は、私の解釈するところ、自衛権一般を認めており、当然集団的自衛権も容認されている。百歩譲って、さにあらずとしても、それなら集団的自衛権の行使は、明示的に禁止されてはいないのだから、このたび限定的にであれば行使可能と解釈することにしました、でいったい何が悪い。憲法解釈に際して、original intentなんかどうでもいいとまでは言わぬにせよ、社会情勢、国際的な情勢に対応するための政策論からの要請は、解釈に影響し得ることは当然である。

 「政策として集団的自衛権の行使はできるようにした方が良いとは思うけど、それには憲法を改正しないと」という一見良心的な考えは、しかしあまりに硬直している。例えば、メデイアの扱いが不当に小さいと思われる、ヘイトスピーチを規制しようとする法案が審議されている。憲法に忠実な「立憲主義者」であれば、当然猛反対すべきところである筈だ。趣旨には賛成だが、憲法第21条の「集会、言論、結社の自由」に但し書きをつける等の改正をしてからでなきゃだめということにならなきゃおかしい。そういう主張はあまり見かけないけど。ただし、私は、このヘイトスピーチ規制なるものには、疑念を持っていることは断っておく。とにかく、これからは、安保法案反対派の皆様のひそみに倣って、「言論弾圧法案」と呼ぶことにしよう。こんな法律が通ったら、たちまち自由にものが言えなくなる、暗黒社会になると、あちこちで言いまくるぞ。安保法案について何か言えと言われたら、はなはだ簡潔に済ませられる。1行で終わるだろう。「私は戦争に反対だ。故に安保法案に賛成だ」以上。

(8月6日深夜記す。)