検察官の独立性とはいかに保障されるか

 

 検察庁法改正をめぐる迷走劇は、またしても政治の貧困を印象づけた。当該法案自体の是非を離れて、検察官の独立について少し考えたい。誰にでも分かることは、検察の独立とは、司法の独立や三権の分立とは、一応別の話であることである。ただし、検察は、起訴権限をほぼ独占しており、刑事事件において起訴されるべき事件であるにもかかわらず起訴がなされないなら、そもそも裁判にならない。つまり、裁判所が独立していても出番がなく、裁判所の独立の意味がなくなる。かかる文脈においては、検察官は、行政官であっても準司法官の性格を持つ。検察が制度上は属する行政権力、つまり内閣、法務省から一定の独立性を保ち、かつそう信頼されていることは、確かに重要である。

 そうではあっても、しかしたとえば、検察官の定年を63歳にしておけば、検察の独立が保たれると言わんばかりの今回の馬鹿騒ぎには、失望しかない。昔懐かしい歌手とかが、何を言った、言わないというのではなく、野党の国会議員や法律家のことだ。検察の独立とは、行政部内部で、一定の独立性を保っている、また独立しているべきということであるのみならず、さらには、裁判所や弁護士や世論、マス・メディアからも独立していて、それらの意向に左右されてはならないということのはず。例えば、弁護士会にとって好ましい検事とはどんな検事だろうか。日本弁護士会は、死刑制度に反対している。ならば、絶対に死刑を求刑しない検事がいいのか?そうではあるまい。死刑制度の是非は、さておくとしてである。検察の独立をいかに保障するかの手立ては、複雑だし困難でもある。特定の人物を念頭に置いた、これまた特定の法案に反対するだけで、野党からも法律家からも、一切の対案というものが示されなかったように思う。これでは、今のままで十分だという話にしかならない。本当にそう思うのか?

 確かに、基本的には今のままでもよいという考えには一理ある。と言うより、そもそも、問題となったこの法案は、現状を根底から覆すようなものではなかった。定年の延長は、国家公務員全体に合わせるともに、検事の人手不足への対策であったと聞く。ただ、高級公務員の人事には、政治家が一切容喙してはならぬというだけで良いのだろうか?もしそうなれば、人事は役人内部で勝手に決まることになる。次官以下の人事は、役人間の力関係、評判、閨閥、学閥その他諸々の要素の中から、自ずと形が現われるのだという訳だ。こうした人事のあり方は、一概に否定すべきではない。妙な例を持ち出すかもしれないが、イギリス保守党の党首、つまりは首相候補は、人望を集めて自ずと現れてくる(emerge)ものとされていた。さすがにそうもいかなくなって、初めて党首選挙が行なわれたのは、意外に最近の1964年、下院議員の投票でエドワード・ヒース氏が選ばれたときの事である。

 しかし、現状で、検察が内閣、国会、裁判所、メディア、ひいては世論の暴走逸脱から独立しているとしても、では検察自体の暴走は、誰がどうやって抑止するのか?この答えは容易ではない。自浄作用に期待するというのでは、話になるまい。無論自浄能力はあるだろう。しかし、それはほとんどあらゆる機関にあるとしてもよい。大学にすら少しはある(と思う)。つまりあらゆる機関、制度は外部からの干渉を排して自浄作用に期待すれば、すべてうまくいくということになってしまう。

 ここで、目の覚めるような提案ができないのは遺憾である。ただ、いくつかの参考になる考えを提示するにとどめざるを得ない。実は、政治学の見地からは、意外に簡単な解が導ける。それは、検察官を直接公選制にするということである。こうすれば、人事権は国民にあることになる。制約は、選挙に落ちはしないかということだけで、政治家と同じになる。事実として、アメリカでは、州検事は公選制であるのが一般的だ。政界に野心のある有能な法律家の、政界への登龍門とされてもいる。判事の公選制は、日本国憲法の改正を要する。検察官については、それは不要かと思うのだが。ただし、では具体的な選挙制度をどう設計するかという難問が残る。

 今一つは、検察官の起訴権限に制約を課して暴走を抑止するという案。今でも、検察審査会という歯止めはあるにはあるものの、検察官は、ほぼ起訴権限を占有していると言ってよい。アメリカでは、起訴自体が陪審を経なければならない。これは、検討に値しよう。アメリカの話ばかりで、アメリカ出羽守と揶揄されそうだが。

                           5月22日 深夜脱稿