10年前の5月にも、同じ趣旨のことを書いた。以来、憲法の改正は一向に進まない。重複を厭わず読んでみてください。

 毎年5月3日は、憲法記念日だ。なぜかと言うと、誠に単純明快、昭和21年11月3日、現行日本国憲法は公布され、半年間の周知期間を経て、昭和22年5月3日に効力を発したから、というわけだ。最近は由来不明の祝日が増える中で、誠に分かり易く、納得も行く。何故か「文化の日」と呼ばれている11月3日は、元来は、明治天皇御生誕の日であり、戦前は「明治節」と称された。「海の日」、「山の日」とは何の所以か、まあ調べれば分かるのだろうがどうでもいい。そのうち6月か12月に、「空の日」ができるかもしれない。どうせ大学の授業日とすぐに連動はしないから、私にはあまり有難味もないが。

 昭和25年、この私ですらまだ生まれていない頃のこと。自衛隊の前身保安隊のそのまた前身である警察予備隊が設置された際には、警察予備隊設置法の国会審議は難航した。名前は警察でも、その実質は軽装備の歩兵部隊であったから、第九条で、明快に保有を禁じられているはずの陸軍じゃないのだとは、いかにも苦しい言い分であった。野党の牛歩戦術で、徹夜の審議となったことは言うまでもない。遂には、議長席を取り囲んだ野党議員を排除するため議場に警官隊が導入され、などと言ったら、信じる読者もいそうだ。全部嘘。そんなことは一切起こらなかった。何故かというに、警察予備隊設置法なるものが、そもそも存在しなかったからである。日本の再軍備の魁となったと広く認識されている警察予備隊の設置は、政令という形で実施されたのであった。

 政令に根拠を提供する大本の法律もないのに、何でそんなことが可能であったのか?今日の政令は、法律の施行細則的の性格を持つか、法律により委任された権限の行使を規定したものだ。ところが、警察予備隊令は、現在の政令には非ず、「ポツダム政令」、広くは「ポツダム命令」と称されるものの一つであったからである。これは、連合国最高司令官が日本政府に命じて占領政策を実施するに当たって、日本国憲法上法律の制定が必要な事項であっても、命令の形式で行なえるようにしたものである。内閣にとっては、便利だね。国会審議なんか気にしなくとも、思うようにできるのだから。でも、それって憲法違反じゃないのだろうか?無論、今なら違反に決まっている。だから、当然、今はこんなことは起こらない。現在の自衛隊は、歴とした自衛隊法という国会で可決された法律に基づいて設置されている。その自衛隊法自体が、憲法に照らしてどうなのかというのは、また別の話だ。

 同様の事例は、他にも多くある。占領期には、特定の人間を公職から排除する措置が取られた。初期には軍国主義者とされた人々、後期には共産主義者が対象とされた。これは、憲法第十四条違反と言わざるを得まい。団体等規正令は、占領政策に反対する団体の解散権限を内閣に与えていた。有難や日本国憲法には、結社の自由が謳われてはいたのに。また、言論統制も行なわれた。全ての出版物や放送は、占領軍の検閲を受けなければならず、不都合と判断された新聞記事は削除を余儀なくされた。報道を禁じられた事項には、検閲制度自体も含まれている。また、頻発していた占領軍兵士による婦女暴行事件も、正面からは報道できなかった。ところが、事後の検閲で削除を命じられたりすると紙面の差し替え等大損害を生じるから、占領軍の意向を忖度して筆を曲げたり、婉曲に表現することが行なわれたのである。書籍は、容赦なく発行禁止とされた。栄えある発禁処分第一号を受けたのは、戦犯裁判の『東条英機宣誓供述書』であった。アメリカには、よほど都合の悪いことが書かれていたらしい。この書物が復刊されるのは、実に平成の御代を待たねばならなかったのである。しかし、「ポツダム命令」という言葉自体、もう消えてしまった。私が学生時代に使った政治学用語辞典には収録されていたのに、最近の類書からは、独立項目としては抜け落ちてしまっている。現在消滅して存在しないということは事実でも、現在も存在する自衛隊や破壊活動防止法の起源を辿れば、「ポツダム政令」に行きつく。その意味で、「ポツダム命令」はまだ生きているのだ。

 これでも、日本国憲法が昭和22年5月3日に効力を発したなんて言う人は、何を考えているのだろう。現行憲法記念日への疑念は、実は寧ろ、現在の憲法典の価値を高く評価し、改正に反対する人びとから沸き上がってこなければおかしい。彼らが称賛して止まぬ言論・結社・思想・信条の自由は侵され、国会が議決制定した法律が支配するという法治主義すら貫徹されなかった。普通、憲法典とは、ある独立主権国家の最高法規とされる。つまり、憲法を超越する権力が存在しているなら、それは最早憲法とは言えない。

 ここがポイントだ。占領軍の権力とは、超憲法的のものであった。日本は、軍事占領下に置かれており、独立主権国家ではなかったのである。そうであれば、日本は、そもそも本来の意味での憲法など持ちようがない状態であったことになろう。この時期、日本からアメリカに輸出された雑貨品、灰皿やコーヒーカップ、プレートなど日用の食器には、原産地表示としてMade in occupied Japan と焼き込まれている。連合国によって占領中の日本という地名の場所で作られたということである。憲法が効力を発したとは言いながら、昭和22年5月3日以降も、占領は継続した。現行憲法成立直前の旧帝国議会における立法に対しても、占領軍の干渉は行なわれた。たとえば、現在の国会法における会派関連の規定は、占領軍総司令部民生局の指示によっている。

 日本国憲法とは、畢竟アメリカというお釈迦様の掌で踊る孫悟空日本人が、民主政治ごっこ、「デモクラシー音頭?」という踊りをいかに踊るべきかというゲームのルールであったのだ。ただし、占領政策には口出しさせぬぞという前提において、である。憲法が本当に、我が国の最高法規になったのは、別の年の別の日付であるはずだ。それを捜すなら、昭和27年の4月28日となろう。サンフランシスコ講和条約の発効日である。この日以降、日本からの輸出品には、MADE IN JAPANと表示されるようになった。実質的な憲法記念日であり、主権回復記念日であるこの日こそ、国民の祝日たるにふさわしかろう。ちょうど昭和節と連休にもなるし、というのは冗談だが。

 安倍内閣時代に、この日に主権回復記念式典が行なわれたことがある。沖縄の横槍で一回きりに終わってしまった。

 占領下にあった当時から、何故か日本人にはその意識が希薄であったらしい。「occupied 抜きのJapan論議ほどふざけたものはない」とは、もう70年以上も前の林達夫の慨嘆である。戦争に負けて占領されるというのはどういうことであったのか、このことは、我々の現在を確認するために正確に認識しておくべきことであるはずである。本来「戦後」とは、昭和27年4月28日以後と認識されるべきであるのだ。そして、その戦後はまだ終わっていない。無論、歴史が続く限り、これからも永遠に戦後ではあるだろう。それは、今もこれからも、例えば日露戦争後であり、西南戦争後であるのと同じである。しかし、それとは異なり、先の敗戦と占領がもたらした法制が存続しているという意味では、一時代としての「戦後」は続いている。日本国憲法の成立過程を仔細に見れば、アメリカによる押しつけというのは、いささか粗暴な解釈である。しかし、アメリカがどう思っているかは、事実とは別の問題なのだ。

 その意味で、ジョージ・W・ブッシュ氏が、1999年11月19日に、カリフォルニア州はシミ・バレーのロナルド・レーガン記念図書館で行った演説は、興味深い。同図書館は、共和党にとっての一種の聖地であり、そこでのこの演説は、彼が翌2000年に迫っていた大統領選挙での共和党主流派候補者としての地位を確立するうえで重要であった。とともに、注目を集めたのは、初の本格的な外交政策に関する演説であったことである。大州テキサスの知事としての経歴は、実際の政策立案実行者としての能力の証明には十分である。しかし、外交経験は皆無であり、彼が克服すべき弱点とされていた。この「真にアメリカ的国際主義」と銘打った演説において、過去のアメリカの「寛大な」外交政策に触れ、日本についてこう述べる。

 

「我々は、日本を打倒した国である。そののち、食料を配給し、憲法を書いてやり、労働組合の設立を促し、女性に投票権を与えてやった。報復を予期していた日本人は、代わりに慈悲を得たのだ。」

(We are a nation that defeated Japan – then distributed food, wrote a constitution, encouraged labor unions and gave women the right to vote. Japanese who expected retribution received mercy instead. )

 

 まあ、でたらめだとまでは言えまい。しかし、世の中には「それを言っちゃあおしまいよ」ということもある。何より気になることは、この演説は、多分ブッシュ氏より若い世代の手になるものであろうということだ。あるいは、コンドリーザ・ライス女史あたりであったろうか。しかし、演説を書いたのが誰かということよりも、もう日本の占領を経験したはずのない世代に、このような見方が継承されているということが重要である。これは、ある意味では戦慄すべきことなのではないか。彼の国の態度に、そうした、両国を対等ではない、日本を一段下に見る意識、今風には「上から目線」の気味を感じることはままある。単に、私が僻みっぽいだけなのかもしれぬが。さすがに、政府当局者、公職者は、あからさまにそうした発言はしない。当のブッシュ氏も、この演説の時点では、単にテキサス州知事であり、大統領選挙の共和党候補者のそのまた候補者に過ぎなかった。そして、私の知る限りでは、大統領就任以後は、さすがにこうした発言はなかった。それでも、このことは、記憶しておいた方がよい。アメリカ人にとっての憲法典とは、デモクラシー教の神聖な経典のごときものであり、それを書いてやったという相手を、どうしても対等だとは思えないのであろう。

 もっと見逃せない発言もある。2016年大統領選挙戦でのことだ。当時副大統領であり、現アメリカ合衆国大統領であるジョー・バイデン氏は、同年8月15日、ペンシルベニア州におけるヒラリー・クリントン氏の応援演説において、日本の核武装を容認するかのような当時のトランプ氏の発言を批判してこう述べた。「彼(トランプ氏)は、核武装を禁止した日本国憲法を我々が書いたことを、わかっていないのではないか。」(Does he not understand we wrote Japan’s constitution to say they couldn’t be a nuclear power?) ブッシュ氏の場合と同じく、 全く根も葉もないでたらめを言ったわけではない。この人の失言とは、そうではなく、大局ではほぼ事実ではあっても、それを粗暴で直截に過ぎる仕方で語ってしまう、要するにデリカシーを欠く発言なのだ。政治家としてのバイデン氏の欠点は、その軽率さなのである。この発言の基本的な問題は、しかし、内容とは別にある。それは、当時バイデン氏が現職の副大統領であったということである。なるほど確かに副大統領は、大統領が死ぬのを待つのが仕事だと揶揄される閑職ではある。とはいえ、アメリカ行政府のナンバーツウであることは紛れもない。当時はテキサス州知事に過ぎなかったブッシュ氏とは、立場が根本で異なるはずだ。政治センスの欠片もないとは言い過ぎだろうか。

 だがしかし、そのことには我々自身にも大きな原因と責任があるのではないか。同じ敗戦国であり、国土の奥深くにまで地上軍の侵入を許してしまい、分割占領から、果ては国家分裂の憂き目を見た旧西ドイツは、しかし彼ら自身の民主国家再建に当たり、憲法典(基本法と呼ばれた)への戦勝国の容喙を断じて許さなかった。そして、統一を経る中で、都合60回にもわたる改正を自分たち自身の手で成し遂げている。無論、改正の手続きのハードルは、日本に比べて低い。しかし、日本よりも、改正のハードルが、ある意味遥かに高いアメリカ合衆国においてすら、制定以来230年にわたる歴史の中で27箇条もの修正条項が追加されている。

 憲法典を自分で作り、自分で手直しできるかどうかは、自治能力有無の指標であると私は思う。憲法記念日とは、普通の意味での日本国憲法のお誕生日ではないということを認識すること、敗戦を境目にして、暗黒の戦中戦前、平和と民主主義の戦後などという迷妄を脱すること、これらが憲法論議を含む我々の自己認識の第一歩たるべしと考えている。