諸君は杉原千畝が稲門出身だと知っていただろうか?実は、14号館入口近くの彼のレリーフが12年前、2020年10月24日に建立されるまで、私は知らなかった。杉原は、確かに早稲田大学高等師範部英語科(現在の教育学部英語英文学科)本科に1918(大正7)年4月入学した。しかし、翌大正8年11月には中途退学している。その後外務省の官費留学生として大陸に渡り、専門職員として情報収集と分析に従事した。在学中の想い出や、どんな勉強をしたのかについて、彼が書き残したものを読んだことはない。進路をめぐって衝突した父親に仕送りを絶たれてアルバイトに明け暮れ、おそらくは殆ど大学には行かなかったのではないか。

確かに一時は在学したとはいえ、早稲田大学がこんな杉原を出身者の一人とすることは、さして縁のない有名人を囲いこもうとしているという誹りを受けるだろうか。実は、そうでもない。杉原の学んだ学校、少なくとも高等教育機関は、すべて今日既になく、彼が確かに在籍したからには、早稲田大学が杉原を出身者とするのはおかしなことではない。ただし、そうであるからには、杉原を出身者とする唯一の大学として、彼の事績を正確に紹介し、正確な評価につなげる責を負うとしてもよかろう。

 そこで、私が以前から気になっていた点を記しておく。悪気はないとは思うものの、杉原を「日本のシンドラー」と紹介する、感心しかねる例が時折見られる。早い話が、早稲田大学の公式サイトには、「『日本のシンドラー』としての功績を顕彰」とされている始末だ。

 シンドラーとは、オスカー・シンドラーのことである。スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」に名高い、実在の人物。第二次大戦下のドイツにあって、経営する工場に、多くのユダヤ人を匿った。だから、同じく多くのユダヤ人に独断で通過ビザを発給し、命を救った杉原は「日本のシンドラー」だという訳だ。

 しかし、多くのユダヤ人の命を救ったという以外に、この2人にはほとんど何の共通点もない。せいぜい、同時代の人間の男だったというくらいだろう。最大の相違は、シンドラーがナチス・ドイツの国策に逆らって身の危険を顧みずユダヤ人を匿ったのに対して、杉原にはそんな危険はなかったことである。なぜなら、ビザの発給基準を独断で緩和したとしても、杉原が国策に逆らったわけではない。日本は、ユダヤ人の迫害絶滅などに手を染めてはいなかった。そもそも、現在の中国とは違い、いかなる民族の絶滅も企図したことなどない。当時は同盟国ではあったにしても、そこはドイツとは根本的に違う。それを不用意に、「日本にもシンドラーがいた」なんて、とりわけ外国人に発信しようものなら、戦前の日本もユダヤ人を絶滅しようとしていたのかとあらぬ誤解を招く。絶対に避けねばならない。

 日本の対ユダヤ政策は昭和13年12月6日の五相会議で決定されていた。五相会議(ごしょうかいぎ)とは、昭和時代前期の日本において、内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣の5閣僚によって開催された会議。 主に陸軍・海軍の軍事行動について協議され、これを実現する財政・外交政策のために蔵相、外相も出席した。

その要綱は、以下の通り。

一、現在日、満、支に居住する猶太人に対しては他国人と同様公正に取扱ひ之を特別に排斥するが如き処置に出づることなし
二、新に日、満、支に渡来する猶太人に対しては一般に外国人入国取締規則の範囲内に於いて公正に処置す
三、猶太人を積極的に日、満、支に招致するが如きはこれを避く、但し資本家、技術家の如き特に利用価値あるものは此の限りに非ず
 (片仮名は平仮名に変え一部濁点を追加した)

 仮にユダヤ難民を救ったというだけで「日本のシンドラー」だというなら、他にも例を挙げることができる。オトポール事件で有名な樋口季一郎は、近年漸く知られるようになってきた。1938年3月8日、関東軍特務機関長樋口季一郎中将は、極東ユダヤ人協会から救援の要請を受けた。ナチス・ドイツの迫害を避け、劣悪な状態の列車にぎっしりと身を寄せた状態で、命からがら、やっと極東地方に避難したユダヤ人が、満州国から入国拒否を受けて、もう身動きができない境遇に陥っていた。気温が氷点下30度まで下がった極限のオトポール駅(ソ連と満州国との間の駅)で足止めされ、ユダヤ人たちは劣悪な環境に放置されていたのである。これが「オトポール事件」である。

 樋口は満州国外交部に指示を出して、ユダヤ人難民に入国ビザを発行するよう措置した。そして満州鉄道社本社の松岡洋右総裁に、ユダヤ人を追加輸送するための列車を緊急に手配するよう要請した。またユダヤ人に衣類や食品を提供し、患者には治療措置を施した。当時、この樋口中将のビザ発給措置で命を救われたユダヤ人の数は正確には分かっていないものの、数千人以上にも達するといわれている。 

 ドイツ政府は、日本政府に激しく抗議してきた。これについて樋口中将は関東軍司令部から出頭命令を受けて、事情を聴取された。参謀長の東条英機は、人道的見地からの措置だということを了承し、樋口に特別な責任を問わなかった。

 他にも犬塚惟重(1890〜1965年)海軍大佐は、上海駐留時代、ナチス・ドイツの迫害を避けてやってきた多くのユダヤ人難民を、入国ビザなしで上陸させた後、日本人学校をユダヤ人難民居住地に提供するなど、ユダヤ人の保護に力を尽くしている。また、荒木貞夫陸軍大将は、文部大臣の時、ドイツから在日ユダヤ人教師の追放を要求されるも、民族差別には同意できないとして拒否している。

 ユダヤ人を差別せず救出に力を貸しただけなら、東条英機や松岡洋右、犬塚惟重も、日本のシンドラーだということになるんだが。それならそれでもいいと思わぬでもない。ただし、かつての日本帝国が、ナチス・ドイツや今の中国のような邪悪で野蛮な国ではなかったのだということは、重々肝に銘じておきたい。

 と同時に、杉原の本当の事績について、より正確に認識する必要を痛感する。正確ならざる認識とは、彼の紹介としてよく見かける「ホロコーストからユダヤ人を救った」というものである。例えば、2021年、現地時間10月11日、エルサレム市郊外に「杉原千畝広場」ができたことを伝える13日付『読売新聞』の記事は、こう結ばれている。「杉原はリトアニアの日本領事代理だったⅠ940年、ナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ人に日本を通過するためのビザを発給し、約6000人を救った」(下線部は今村による)。

 結果としては、そうなったのであり、間違いだとまでは言えない。しかし、子細に見ると事情は異なる。杉原が、カナウスに着任したのは、1939年8月28日であった。直後の9月1日、ドイツが西からポーランドに侵攻し、英仏がポーランド側について参戦し、第二次世界大戦が始まる。この時ドイツと友好関係にあった旧ソ連は、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づいて、9月17日には東部からポーランドを攻撃。10月10日、リトアニア政府は、軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒を受諾する。最終的には、リトアニアはソ連に併合された。ソ連軍の進駐は、1940年6月15日のことであった。いわゆる「命のビザ」は、同年7月から9月にかけて発給されている。ビザを求めて殺到したユダヤ人の大半は、東部ポーランドのソ連占領地域からの難民であり、その時点では、ドイツとソ連はポーランドを山分けして蜜月だった。まさか、約1年後にドイツがソ連に攻め込むなど、ユダヤ人難民が予知できたわけもない。つまり、彼らが恐れ憎み、逃れようとしたのは、ソヴィエト共産主義だったのだ。無論、ソ連に併合必至となっていたリトアニアに留まっていれば、ドイツが侵攻してきて、ユダヤ人は悲惨な運命を辿ったに違いない。「結果として」ユダヤ人をホロコーストから救ったと、言えなくもないのは事実である。しかし、正確に「共産主義体制から逃れようとしたユダヤ人難民を救った」とした方がよいと思う。

 ところが、経緯を知る本人のはずの杉原が、この誤りを正そうとはしなかったらしい。杉原は、ヒューマニストであるとともに優れた情報収集分析官であり、また早稲田大学に縁のある偉人としてよいとは思う。しかし、一般に流布している話は、伝説とまでは言わぬにせよ、正確ではない。今後の解明が待たれる。