もう今年の新入生諸君が小学生くらいであったはるか昔、平成28(2016)年に成立し施行された平和安全保障関連諸法(厳密には、既存の10の法律の一括改正)は、限定的ながら我が国に集団的自衛権の行使を可能とする内容であり、安倍晋三氏の最大の功績の一つである。また、特定秘密保護法の制定など、安倍氏がわが国の安全保障に為した貢献は大きい。

 ところが、当時の野党旧立憲民主党等は、強く反対した。そのこと自体は構わない。見解の相違というものを私は尊重したいからだ。それに、行政部の監視、政策批判は野党の役割である。まあ、厳密には国会の役割ではあるものの、議院内閣制の下では、与党には内閣の政策の根本を批判はし難い。故に野党の責任は重大である。野党は批判ばかり、と難じる向きもある。しかし、説得力ある対案を示せればベストではあるものの、批判だけでもすること自体は健全である。ただ、その批判の内容が、本質を突かぬ枝葉末節に向かったり、揚げ足取りに終わるのはいただけない。

 この点で、当時の野党の提起した議論は、誠に次元の低いものであったと思う。「憲法解釈の変更を内閣がするのはおかしい、立憲主義に悖る」だの、「集団的自衛権は違憲である」だの、的を外した謎議論ばかりであった。根本は、日本の安全保障はどうあるべきか、そのために集団的自衛権をどう位置づけるべきかであったはずだ。不要と言いたいなら、その所以を説き、また代替案を示すか現状の変更は不要である所以を述べるべきであった。そうした骨太の議論は、法律や手続きに関する事ばかりで、殆ど聞けなかったと記憶する。そして、あろうことか、社民党に至っては「戦争法案」だなどと呼び、これによって日本は戦争に巻き込まれるだの、戦争ができるようになる、果ては徴兵制が施行されるなどと、およそ正気とは思えぬ話に終始したのである。徴兵制は、個別的自衛権しか許されなくとも採用可能であるのだから、そもそも集団的自衛権とは何の関係もない話であった。

 あれから6年を閲し、日本は戦争をしてもいないければされてもいない。徴兵制も施行されてはいない。そもそも、戦争という用語の使い方が杜撰に過ぎる。恥ずかしくはないのか。野党の低迷・退潮もむべなるかなとしか思えない。これは、手放しには喜べぬことである。

 昨今の野党の政府追及の議論は、6年前を想起させる。安倍氏の国葬には、「法律に根拠がない」、「閣議で決定したのはおかしい」、「弔意を強制する」等々。手続き論は6年前と次元が同じ。そもそも不可能の弔意強制を言い立てるのも、戦争になる、徴兵制になるという与太話と大同小異。人間の内面に立ち入って弔意を抱かせるなんて、どうやったらできるのか教えてほしい。国葬に対する批判の根本は、安倍氏の業績をどう評価するかであるはずだ。国葬に値しないとするなら、その所以を説いて、国会で正面から論戦を挑むがよい。それとも、旧民主党の歴代総理と比べられることになると困るから、腰が引けているのだろうか。果たしてどうなるか。

 もし、手続き論や費用、つまりカネの話に終始するようなら、6年前から看板の掛け替えと党の離合集散は盛んでも、野党には何の成長もなかったと言わざるを得まい。そして、一党優位制は暫くは持続しよう。私は、決してそれがいいことだとは思わないのだが。 9月3日記す