鴉ヶ城 八頭郡智頭町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

標高300m・比高110mの鴉ヶ城(智頭町智頭)…

この城の城主は「広田家之系図」によると、「広田民部大輔良利が城主といい、大永年間に尼子経久に従い、一軍は智頭郡当村に攻め入り、当城を築き、これに居らしめ、西の淀山城主、毛利の武将草刈に備えた」が、「天正八年(1580)の秀吉の鳥取城攻めの時、平定され、その付近に居住し、農民になった」という。
しかしこの時期、経久は因幡を侵攻していない。
なお、経久は大永四年(1525)5月、伯耆へ侵攻し、倉吉の打吹城の伯耆守護山名澄之や、羽衣石城の南條宗勝らを制圧したが、西方の大内氏が尼子氏の拠点を攻撃しているとの毛利元就の注進により伯耆を引き払い、軍勢の矛先を安芸国に向けた。この時、安芸国銀山城救援に進発した軍勢の中に「宿将広田」の名が見えるが、『雲陽軍実記』には、度々「広田」の名は登場する。
天文十三年(1544)二月、晴久が因幡を侵略し、鳥取城下へ達し、八頭郡私都を蹂躙しているが、これも母の危篤の報に接して踵を返している。尼子氏が最も盛大になったのは天文二十年(1551)代であるから、城番広田一族が蟠踞したのはこの頃であったろうが、後に毛利方の草刈氏によって蹂躙され、一族はこの地に帰農したと推測される。
(※智頭町誌より)


国道53号線より見える、怪しい櫓のある愛宕公園より、その後ろの尾根へ…
そのまま山中徘徊し、一度、南の山頂へ至る富士山
その辺りにも曲輪群のようなものがあり、実際の城域はこの辺りまであったのかも知れない…
…もしくは後世の改変か…!?

尾根を北へ進むと、堀切が合格


細長い曲輪を挟み、さらに堀切合格


その上に曲輪ひらめき電球


そして主郭ニコニコ


北へも4~5段の曲輪群ひらめき電球


北の曲輪群から、西へと帯曲輪が続く…


西へ伸びる細長い尾根上の曲輪ひらめき電球

その西端に、さらに階段状に曲輪群のようなものがあったが、植林されている事もあり、恐らく後世の改変と思われる…

鴉ヶ城遠望カメラ
右側に見えるのが、怪しい櫓の建つ愛宕公園汗


智頭町の中心部を見下ろす要衝の地に築かれた城富士山



八頭郡智頭町の城


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