標高325m・比高255mの景石城(鳥取市用瀬町用瀬)は、用瀬城とも、磯部城とも呼ばれる
山名時氏が因伯の守護となった興国元年より十五~六年後に播磨の赤松氏が美作から智頭郡に侵攻し、智頭の樅尾城や草木城、用瀬の景石城を攻略…
その後、時氏が城を取り返す為に兵を起こし、美作まで押し入った…
故に山名時氏が因幡に来る以前には国侍がいて既に城を造っていたと思われる。それ以後この城は山名の傘下の城として守備されていた。
天正八年(1580)に秀吉が若桜谷より因幡に攻め入り、景石城は攻略され、磯部兵部大輔が城主となったが、不在中に山名豊国に攻められ、山名の持ち城となった。
しかし天正九年(1581)に秀吉が再び因幡へ侵攻、再び磯部が城主となった。
その後、関ヶ原で磯部は西軍に味方した為、城退転の憂き目に遭い、山崎左馬介の持ち城となった。
元和元年(1615)十一月、一国一城令により、景石城は廃城となった。
(※用瀬町誌より)
旧用瀬町役場の後ろの山にあり、駐車場や説明看板、登山道と、至れり尽せりの整備がなされている
登山道脇の四の郭
全体的に整備されている
三の丸
二の丸の石垣
二の丸
二の丸と、本丸の石垣
本丸
南の曲輪にも見事な石垣が
東の子持松砦へ続く尾根の土橋
登山道の途中にある南の堀切
旧八頭郡用瀬町の城
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