標高268m・比高200mの鵯尾城(鳥取市玉津)
玉津南西に位置する268mの峰を中心として、周辺の尾根や尾根続きの峰に郭群が認められ、空堀跡等も認められる。因幡南部と北部を結ぶ交通の要衝にあり、北東方の鳥取城と鳥取平野を一望出来る。築城年代は不明、当城と鳥取城は武田高信の拠点であり、特に南因幡方面からの侵攻に備える戦略拠点であったと考えられる。
武田氏は天正元年(1573)八月因幡へ侵入して来た尼子氏の家臣、山中鹿之介の籠る甑山城(旧国府町)を攻撃するが敗れ、尼子氏と連携する山名豊国に鳥取城を明渡し、当城へ移ったという。天正二年の毛利輝元書状に「鵯尾」と書かれ、鹿野城在藩中の野村士悦は尼子勢再侵入後の因幡の状況を報告し、鳥取城・鵯尾城が『堅固之由』と伝えている。この段階で高信の鵯尾城在城の有無は不明だが、翌三年三月には豊国が当城を掌握し、五月には毛利氏から徳吉に検使として派遣され在藩していた山田重信の支配下に置かれ、この頃高信は当城を追われていたと推定される。
高信謀殺を企てた山名豊国は天正六年八月、智頭の草刈伊豆守追討ちを理由に出陣し、大義寺(旧河原町)に本陣を置いた。当時高信は鵯尾城に居たが、豊国に合力を依頼されて当寺に赴き、豊国の家臣によって討たれたと伝えられている。
(※因幡民談記より)
登城口
道は細いが、ここまでで入れる
登城口の脇の鵯尾城の看板
登り始めてしばらくで、鵯尾神社に…
さらに進むと、ご覧のような曲輪が現れる
曲輪は登山道として整備されている所も、登山道から逸れていて薮に埋もれている所もある…
看板に「馬場」と書かれていた細長い曲輪
その手前の曲輪…
手前の曲輪は東へ帯曲輪状に続いている
進むと、馬場から一段下がった細長い曲輪…
そこから小さな腰曲輪を二段経て、主郭
因幡にて下剋上を目論んだ武田高信も、ここから鳥取市内の平野を望んだのだろう…
鵯尾城 後編へ続く(^-^)/
鳥取市の城