羽衣石城 旧東伯郡東郷町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

標高372m・比高247mの羽衣石城(湯梨浜町羽衣石)は、模擬天守が建っている事もあり、鳥取県内では比較的有名な城…

羽衣石城の創建…
南条貞宗が羽衣石に築城したのは貞治(1366)と云われる。築城の経緯について『伯耆民談記』は次のように述べている。
充満寺にヒイゴ池と云うあり。大さ十歩余り、其水清くして、九夏の天にも乾く事なし。始め南条此充満寺に城をきづかんと、普請に取掛かりした、此の池に一つの燕落ちて死す。南条凶事におもひ、此所を除き、今の城山に城を築きなりといへり。大きなる石壁又後に幽谷の如くなるから堀今に残りて見ゆ。其後寺地となりて、堂塔高閣ありしが、当城滅亡しける時、破却して今は僅かに礎石を残せり。
燕はこの地方の方言で「ヒーゴ」又は「ヒューゴ」と呼ばれる。今も十万寺に字「日向ヶ池」の地名が残る。当て字であるが、燕に由来する地名であろう。池跡も僅かに認められる。こうして、今の字「古城」の地に羽衣石城を築き、初めの予定地はその後「寺地」となったと伝えている。

南条氏は、大永四年五月の「大永の五月崩れ」により、尼子氏によって羽衣石城を追われた。
天文九年(1540)、尼子経久の跡を継いだ孫の晴久が安芸の毛利氏を討伐する為、羽衣石城にいた国久などの諸将を従えて毛利氏の本拠地である吉田の郡山城を攻撃した。南条氏らの伯耆衆は、伯耆の尼子勢が手薄になったこの機に旧領を奪回しようと、但馬山名氏の援助を得て、武田山城守を主将に、南条・山田・小森らを先陣として、まず泊の河口城を攻め落とした。急報を受けた国久は、郡山の陣から羽衣石に馳せ帰り、両軍は橋津川付近で激しく戦ったが、結果は尼子軍の勝利に終わり、伯耆衆の旧領奪回は成功しなかった。この戦いを『陰徳太平記』は「橋津川合戦」と記している。
戦いに敗れた南条氏は、その後も反尼子の立場で行動し、大内氏あるいは毛利氏の尼子討伐戦に参加している。しかし、永禄の始め頃、尼子氏に属していた時期もあった事が知られる。
毛利氏が勢力を拡大し、永禄九年(1566)に至り、山陰の雄尼子氏もついに毛利氏に下り、毛利氏は出雲富田城を収めた。これより先、東伯耆では同五年頃から毛利氏の勢力が及んでいた。毛利氏は伯耆を二分して、東伯耆を南条宗勝に、西伯耆を杉原盛重に統治させた。
(※東郷町誌より)

あまりに話が長くなるので省くが、その後、南条氏は織田家の中国方面軍の羽柴へ寝返って毛利氏と戦う…
また、三朝町誌や関金町誌、倉吉市史や東伯町誌、北条町誌、大栄町誌などを見ると、あちこちに羽衣石城を拠点とした南条氏の出城が見られ、南条氏が東伯耆で如何に大きな勢力を有していたかが伺われるひらめき電球

道路沿いや、羽衣石城の駐車場などに、看板が…


登山道途中の天然石垣ビックリマーク


怪しい模擬天守の建つ主郭ニコニコ

主郭下の虎口!!

整備され過ぎ、主郭下の曲輪には展望台が汗


羽衣石城の水の手と伝わるお茶の水井戸波


八幡社が建つ曲輪…


東の堀切合格

東伯耆で大を成した南条氏の本拠地だけに、広範囲に遺構が展開しており、整備された部分だけでも見所が多い音譜

時間をかけて薮を切り開き、全ての遺構を踏査する為に山中徘徊するのも良いだろう走る人

羽衣石城遠望カメラ



旧東伯郡東郷町の城