幻の小土産山城を求めて① 倉吉市 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

出雲の源行近より「小土産山城があるかも知れない所を踏査してみよう」との誘いがあり、倉吉市へ…

北条の郷小田村の山なり。今は略して里山と称す。文字も斯く改めしにや、今に土産山と言えば知る人稀なり。小土産山と称する事如何なる故にや聞かず、此の山の南の畝を木崩れのうねという。当城は天正の頃、尾高の城主杉原播磨守盛重が二男叉次郎景盛悪逆の事ありしによって、吉川元長より、香川兵部大輔、粟屋彦右衛門を代官として、人数指し向け、景盛を追討あり然るに元長心に思う様羽衣石の南條必ず尾高へ加勢する事あらん、又、景盛味方の人数寄ると聞くならば、居城を捨て羽衣石へ走り、南條を頼むべきか、兎角此の山に砦を築く沙汰せしむならば、景盛に油断させ羽衣石の頼りを断ちて利あるべしとの下知に随い、香川、粟屋此の山に来たり、人夫を督促し、城普請を始める。此の畝の喬木を悉く伐り麓の川に崩したり、此の事を古老伝えて字とし木崩れの畝と称するとなり。今も洪水の後は、此の川より松粕檜椎等の朽木川底より浮き出づるとかや。以て、小土産山の城普請は天正十年の初夏の頃なるべし。景盛攻めは岩倉の以前なり。岩倉滅却は其年の五月なり。或る奮記に出雲勢尾高の城主杉原景盛を攻めて人馬の労を休めて後、岩倉の城を取り巻きしよし述べたり。
陰徳太平記にも、小土産山の城普請に人夫を督促する事を載せたり、又景盛攻めの事は尾高の城の所へ誌す。
(※伯耆民談記より)

天正十年(1582)の夏、吉川元長の命により南条氏の押さえとして築城されたという。『伯耆民談記』は、北條の郷小田村の山、略して里山を所在地とする。現在の倉吉市小田であるが、小田地内に城館の遺構は今までのところ確認されていない。付近の丘陵にも城跡に関連する遺構もなく、穴窪・下古川の水田に城ノ内の字が認められる程度である。所在地不明としておく。
(※倉吉市史より)

調べた情報の中では、小土産山城(倉吉市小田?)の位置は特定されておらず、幻の城…
ちなみに小土産山城は「ざっとやまじょう」もしくは「さっとやまじょう」と読み、里山から文字が転嫁したものと思われるひらめき電球

それにしても教育委員会が調べて、痕跡の見つけ出せない城跡となると、容易に発見出来るはずもなさそうだ…

今回、源行近が提案した場所は、田内城の北、住所では小田と田内の境になる付近だ…

林道(?)のような道があったので、まずそこから山中へ走る人

畑や果樹園などがある付近から薮の中へ…

すると、堀切!?

溝のような窪みが見受けられる…

そこを登ると、曲輪のような削平地…
中央が窪んでいる…!?


しばし歩いて気づいた…
この山中には、恐ろしい程の古墳が存在しているあせる

そう、堀切のような溝は、古墳と古墳の間の窪みだったのだ汗
目ぼしい何かがないかと、さらに踏み込んでみたが、続々と現れる古墳群…

城郭遺構と思われるものは見い出せなかった…
そして、山中にて源行近のズボンにマダニが
!!
奴らは既に活動を開始しているようだ(-.-;)

軌跡ログあし

また、機会を見て小土産山城を探しに行きたいと思うので、タイトルは①としておくむっ

小土産山城に関する情報をお持ちの方は、是非とも御一報を(^-^)/