九塚城(石脇城) 旧東伯郡泊村 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

九塚城(湯梨浜町石脇)富士山

城郭大系には…
標高80m、比高60mの山城。『因伯古城跡図志』に「海辺へ三町位、当時社地となり大森也」「古城跡、高七間位にして台地」とある。
…との記載が「石脇城」としてあり、これが九塚城であろう。

因伯古城跡図志では「石脇村古城」の名で記載されている。

石脇の集落の南方に在る高さ13m、周り500m程の台地であって、傍を筒地に通じる県道が通っている。この城は戦国時代に河口城の因幡に対する前衛陣地として築かれたようであるが、明確な年代は不明である。
永禄九年(1566)11月28日、尼子氏の本城の出雲富田城は落城し、この日をもって尼子氏は滅亡したが、それから5年後の元亀二年(1571)5月9日、その再興を悲願とする遺臣、山中鹿之介幸盛が擁した尼子勝久がこの城を攻めた際、この城を守る毛利方吉川元春勢との間に激戦があり、この時勝久は、部下の原又太郎の抜群の奮闘振りを讃え「九塚表の合戦において粉骨の働き、比類無きに候」との感状を与えている。
付近一帯にある五輪塔群は、この戦の戦死者を村人が弔ったものではなかろうか。泊海岸にある石が使われている。
その後引き続き天正年間にかけても、毛利氏の因幡侵攻の拠点として使われていたようである。慶長五年(1600)、河口城の落城と共に廃城となったが、今でも城に関係した字が残っている。
この城は江戸時代の初めから大正四年まで、石脇村の氏神様の社地となって、古木の生い茂った荘厳な森であったが、社地が廃止されてからは畑地として利用された為、昔の面影はなく、ただ鳥居だけが淋しく残されている。

道路を挟んだ西に残された鳥居…

北西部には小規模な削平地が三段…
しかし畑地となっており、曲輪かどうかは不明…



竹薮に覆われた主郭は広大霧

主郭の西にも広い果樹園があるが、こちらも曲輪なのか、後世の改変なのかは判別がつかないあせる


九塚城遠望カメラ

実地踏査を元に作成した概略図ニコニコ

軌跡ログあし



旧東伯郡泊村の城