此隅山城 豊岡市出石町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

此隅山城は但馬守護山名氏の居城で、伝承では文中年間(1372~75)に山名時義が築城したと言われているが、定かではない。しかし戦国期の至豊・誠豊・祐豊三代の居城であった事は確かである。
文献的初見は、永正元年(1504)夏の事で、守護山名至豊と垣屋続成(日高町・楽々前城主)との抗争が再燃し、続成が至豊・田結庄豊朝の立て籠る此隅山城を攻めている。この時、出石神社にも軍勢が乱入し、社壇・堂舎・経巻・末社諸神が焼失している。
永禄十二年(1569)8月には、織田信長の命を受けた羽柴秀吉らによって、此隅山城など但馬の18の城が落城させられている。その後、山名祐豊は天正二年(1574)頃、此隅山城に代わる新城として有子山に有子山城を築城した。
此隅山城は守護大名の城らしく、城域は但馬最大規模で、南北約750m・東西1200mあると考えられ、山裾の「御屋敷(守護所) 」を両翼から山城が包み込むような陣形である。
城は主郭を中心に、そこから派生する全ての尾根に階段状に曲輪が構成されている。縄張りは大別して、低い段差をもつ小曲輪や、浅い堀切などが構築されている古い部分と、高い段差をもつ広い曲輪、深い堀切、折れをもつ土塁や竪堀などが構築されている新しい部分に別れると考えられる。
前者は、南北朝期から室町期にかけて造られたものと考えられ、後者は主郭周辺・竪堀・折れをもつ土塁・千畳敷・宗鏡寺砦などで、戦国期末期の有子山城築城期に改修されたものと考えられる。 此隅山城は、守護大名山名氏の居城というだけでなく、南北朝期から戦国期の城郭遺構を良好に残している遺跡として、平成8年11月13日国指定文化財の史跡に指定された。
(※現地案内看板より)

いずし古代学習館の奥に登城口が富士山

漏れなく「熊出没注意」(笑)

登って行くと、多数の曲輪を通り抜けつつ道は先へ…
そして堀切合格

さらに進むと、その先にも堀切合格

この堀切の東には畝状竪堀群!!



西へと伸びる尾根には土塁を備えた曲輪ビックリマーク

その南には竪堀!!

主郭ニコニコ

やや西よりの北側尾根にも広大な曲輪が連なるが、こちらは整備されておらず、切岸が高い為、やや苦労しつつ五段程の曲輪群を確認あせる

北東尾根にも曲輪群が連なるひらめき電球





これらの曲輪群には、かつては遊歩道が設置されていたようだが、現在は既に「遊歩道跡」となっている…
そしてこの北東尾根の曲輪群は、途中から三方向に分岐する富士山
北への分岐を進むと、曲輪群の中に謎の石列!?

さらに先には堀切も見られる合格

北東への分岐を進むと、ひたすら曲輪のみ…
東への分岐を進むと、堀切合格

さらに二段程の曲輪を経て、土塁に囲まれた溜池のような場所が…
縄張図にも記載されているが、地面は平坦ではないので、この城の水の手なのかも知れないむっ

主郭の南にも曲輪は連なっており、南西への尾根へ進むと、「千畳敷」と呼ばれる曲輪がひらめき電球

この「千畳敷」に連なる曲輪も、かなり広い…

此隅山城遠望カメラ

軌跡ログあし

北から登り、南西へ下山したが、未整備な場所も全て写真を撮りながら見て周ったので、熊出没注意の山中を5時間半も歩いていた走る人


旧出石郡出石町の城