冨吉城(鳥取市気高町冨吉)、別名古川城
古川城は『因幡誌』によると、「田公の城と道を挟して東にあり。田公の出城、東西十六間、南北二十四間、但し本丸とも西表二十二間にて家老木下某出張せりと。天正八年本城と同時に落去して其の後毛利の家臣武部豊後守と云いし武士代わりて是を守るが、秀吉公一国平均の後退去して廃墟となれり。」とある。
初めの落城は、天正四年(1576)、尼子晴久の家臣山中鹿之介の時、毛利勢に攻め落とされ、二回目は天正八年(1580)、秀吉方となった事によって吉川元春に落とされた。
(※気高町誌より)
東麓の大龍院
大龍院から荒れ果てた山道を登ると、祠の祭られた東曲輪群北三郭に到達する
縄張図に記載されていないが、その北には北四郭
頂部へ向かうと、井戸跡と思われる窪みのある東曲輪群北二郭
古墳のような盛り上がりの東曲輪群主郭
主郭の東帯曲輪状の東曲輪群東二郭
東曲輪群西二郭
東二郭及び西二郭は、南で南二郭と繋がっている
東曲輪群南三郭
尾根続きの南は土橋となっている
土橋の東下には帯曲輪(下段)
縄張図では一段だが、帯曲輪は二段存在した
(↓は帯曲輪上段)
東曲輪群から北西曲輪群への土橋
北西曲輪群の南東の堀切
堀切に接した北西曲輪群南東三郭
登ると、主郭に沿った帯曲輪状の北西曲輪群北東二郭
北西曲輪群主郭
主郭の西には土塁
北西曲輪群南二郭
北西曲輪群北東三郭
北西曲輪群北東四郭
主郭のほぼ真北の北西曲輪群北二郭
北側へ下ると、北西曲輪群北東五郭
北西曲輪群北東六郭
北西曲輪群北七郭
北西曲輪群北東八郭
北西曲輪群北東九郭
北西曲輪群北十郭
この部分は後世の改変か?
このまま北へ進むと宮吉城へ至る尾根の鞍部も、曲輪状の平坦地となっている
冨吉城遠望
軌跡ログ
旧気高郡気高町の城