森城(相生市矢野町森)
別名:飯野山城
『赤松家播備作記』によると、この城には赤松下野守村秀が居城していたとある。『赤松盛衰記』によると「村秀は大永八年(1528)36才で死んだ」とあるが、これは間違いで、本当は天文九年(1540)九月二日に龍野城主として死亡している。龍野城主となった時期は明らかでないが、永正三年(1506)頃までは塩屋城に居た事を実証する記録が『斑鳩引付』の中に出てくる。『新宮町史』には、龍野城を築いたのは赤松政則で、明応八年(1499)に政秀は村秀を龍野城主に移し多くの武将を配備して5歳の幼君村秀を補佐させ、自分は本拠の塩屋城に帰ったとある。村秀が飯野山城主であった時期は何時であったのであろうか。あるいは単に龍野城主赤松村秀の支配にあった事を城主と書いたのかも知れない。しかし『赤松家播備作記』には「村秀は息子政秀(この政秀は塩屋城主の政秀とは別人)と共に飯野山城に居住し天文元年龍野城移った」と書かれている。すなわち村秀は幼い頃龍野城主となり、成人後塩屋城あるいは飯野山城主となり、晩年再び龍野城主となったとすれば、これらの古文献の記載は一応は納得されよう。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)
西二重堀切(西)