高田城(赤穂郡上郡町奥)
別名:抜石山城・西条山城・西城山城・新寺山城
城主は一般に高田兵庫介で、元弘三年(1333)赤松円心によって攻撃され落城した、と云われている。『赤松新古籏下集士録』によると「高田兵庫介 宇野範重三台目爲助嫡。有縁北條、故元弘之時出陣遅刻、円心大憤。後聞与於北條疎之」とある。すなわち高田兵庫介は赤松の一族であるとともに北条氏とも縁故関係があり、主家円心の北条氏討伐の旗上に際しその参加を躊躇したことがわかる。『赤松氏の史料と研究』には範重(『赤松新古籏下集士録』)と頼重(『高田系譜』)と2人の高田兵庫介が出てくる。現地に保管されている『了宅庵之記』によると「元弘の乱に、赤松円心、護良親王の令旨を得て上洛の際、西城山を囲むこと不意に起こり、六万本の炬火を点じて南方より迫り、奥部落右近谷、深谷に伏兵を設けて恰も城南に迫ると見せ、其実主兵を鞍居村の背後より進撃せしめたる為(中略)遂に城陥り、主将高田兵庫之輔頼重了宅庵にて自刃す。時に正慶ニ癸酉年なり」とある。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)