かつてギーザー・バトラーは言った。


「人間は恐怖を求めている」


事実お化け屋敷やホラー映画は既にジャンルとして確立されている。


人間が本能的に恐怖を求めているのを五味弘文(お化け屋敷プロデューサー)は熟知していたのだ。


では恐怖とは何か。


お化け、高い所、虫、血、貧乏、孤独など、人それぞれ「怖い」と感じるものは様々だ。


だが本当に怖いのは人間そのものである。




かつてマルキ・ド・サドが『悪徳の栄え』という本を書いた。


18世紀ヨーロッパの貴族社会で主人公のジュリエットが遊蕩・放埒、殺人、カニバリズムなど悪徳の限りを尽くす話である。


私はこれを一回目は悪徳をする側として、


二回目は悪徳をされる側(美徳を重んじる側)として、


そして三回目は登場人物たちの語る自己流の哲学を紐解く目的で読んだ。


どれも共通して言えるのは、恐怖を感じることなく読むのは不可能ということだ。


「いつかはこういうことをされるかもしれない」「次は自分の番だ」と考えてしまう。


「悪徳は自然である」「美徳こそ人間が作り上げた不自然な生き方だ」と豪語する饒舌な遊蕩児たちが投獄されることなく悠々と生きていられたのは、単に当時の時代背景と貴族という階級のお陰だろう。


人間が人間を苦しめるという恐怖を、たとえ本の中であっても感じるのは不快極まりないのである。


だがそんなサドの本が時代を超えて売れ続けるということは、そういった不快極まりないものを人間は一種の好奇心を持って求めているからなのかもしれない。




この『悪徳の栄え』と正反対の位置にあるのが、同じくサドの著『ジュスティーヌ 美徳の不幸』だ。


ジュリエットの妹ジュスティーヌが神を信じ美徳を愛したがゆえにあらゆる悪徳に利用されてしまう話であるが、


真っ直ぐすぎるほど信仰心が厚く「いつかは報われる」と祈り続けるジュスティーヌの言葉にはどこか安心するものがある。


つまり私たちは心のどこかで悪徳(人間を怖がらせるもの)が美徳や正義に勝ることはないと分かっているのだ。


『悪徳の栄え』でも『ジュスティーヌ 美徳の不幸』でも、悪徳を尽くしたジュリエットは最終的に改心し修道院に入っている。


また『ソドム百二十日』に収められている短編小説『悲惨物語』でも、最終的に登場人物たちが美徳に目覚め、これまでの行いを悔い改めている。


実際かなり度を超したリベルタンであったサドも、投獄されてから獄中死するまでの約40年間で悪徳に対する考え方に何か変化があったのかもしれない。


つまりどの時代においても、悪徳はいつか破滅し美徳が報われるというのが自然の摂理なのだ。


人間が恐怖を求めているのは、悪徳が罪であると理解した上での単なる好奇心に過ぎない。


実際に罪を犯せば捕まるのが当然であるが、醜穢な本を読んでもデスメタルを聴いてもホラー映画を観てもまず捕まることはない。


しかしたとえ遊び半分であっても、ピエロの格好をして人々を怖がらせるというのは立派な犯罪であり全くもって非常識なのである。


「スティーヴン・キングの『IT』を観て実際にやってみたくなった」「『オーシャンズ11』を観て実際に強盗してみたくなった」というのが通じるなら、サドが投獄されることもなかっただろう。



彼が亡くなってから150年後、ギーザー・バトラーが自身の所属するバンド名をEARTHからBLACK SABBATHに変えた。


BLACK SABBATHというのは、1964年公開のホラー映画である。


人間の感じる恐怖を不協和音であったり、ダークな宗教的世界観であったり、オジー・オズボーンの存在そのもので表現しているBLACK SABBATHこそ、恐怖を”合法的に”物語る天才と言えよう。


恐怖は人間を錯乱させる。


時には犯罪などの悪徳に走らせることもある。


だが悪徳が美徳に勝利することはないと分かっていれば、恐怖を乗り越え芸術という文化の中で楽しむことだってできるのだ。


悪徳が栄える時代が来るならば、もはやサドの名前も忘れ去られ、ともすればビートルズやエルヴィスが公序良俗違反で裁判沙汰になるのかもしれない。


だが現時点においてそんな時代が来る可能性はまずない。


そう信じることが我々人間が恐怖を克服し且つ芸術に昇華していく所以なのである。









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