ジキルかジーキルかはもはや好みの問題かと。

 

【あらすじ】
秀才かつ優しいと評判のジキル博士が精神分離を起こす薬を開発し、それを自ら飲んで自分の中の悪を呼び起こしハイドという醜い男として人を殴ったり脅したり道徳から解放された自由を楽しんでいたが、やがて薬を飲まなくてもハイドに化けてしまうようになってしまったジキル博士が出した解決策とは…

中学の頃ラルクアンシエル/VAMPSのHYDE(ハイド)の画像をググっている中でこの本に出合い、あらすじを読んだらとてもおもしろそうだったので本を買いました。

ロンドンの薄暗い街並みの描写も相まって数日間電気を消して寝れないくらい恐怖に襲われて、流れで1996年の映画『ジキル&ハイド』を観た後はハイド(ラルクじゃない)が夢にまで出てくるようになりホラー好きの自分の好奇心を初めて恨んだものです。せめてジュリア・ロバーツが出てきてくれればBGMをプリティ・ウーマンに出来たのに。

つい最近同じような“恐怖”の感覚を覚えたのは『世にも奇妙な物語』を観たときです。確かホラー系の話が多い回で、お風呂に入るのも夜一人でリビングに行くのも怖かったのに過去放送分全てのあらすじを読み続け、人間の好奇心というものが老化を防ぐと同時に後悔を抱かせることもあるというのを知りました。しかし好奇心がなければジキル博士がハイドを生み出すこともなかった訳ですし、スティーヴンソンがこの物語を書き上げることもなかったのでしょう。

そんなホラー小説として有名な『ジキル博士とハイド氏』ですが、読み終わった後は恐怖というよりも切なさが込み上げてきます。『ラ・ラ・ランド』の切なさとは少し違いますが、ジキル博士が自分の中の善と悪の闘いに終止符を打とうとした手段、人間の優しさ・脆さがにじみ出ていました。

私が初めて『ジキル博士とハイド氏』を読んだのは中学終わりかけの反抗期真っ只中の頃で、社会に対する漠然とした不満・怒り・反抗心と勉強好きの真面目ちゃんが自分の中で同居していました。その頃は狭いワンルームだったので、イライラと勉強モードが数分ごとに入れ替わり「自分って何なんだろう」「何がしたいんだろう」と悩むのが授業中の日課となっていたのです。なので真面目ちゃん=ジキル、反抗心=ハイドと身近に感じながら読むことができました。

そもそも人間は死ぬまでこうした二面性と闘わなければいけないのではないでしょうか。思春期だけでなく、大人になっても自分の中の良い面(理性)と悪い面(本能)が死ぬまで同居しているんですから、しかも大人になるにつれ知識も増え社会的道徳というのも身につけていく訳ですから、たとえ部屋(心の余裕)が大きくなったとしてもどちらかを追い出すことはできないのです。むしろ常識や道徳を考えるスペースができ、善と悪の概念がよく分からなくなることもあるでしょう。しかし善があるから悪があり、悪があるから善がある…悪がどういうものか知っていないと善良な人間にはなれないのです。相性がすごく悪いのにお互い依存し合っているので、倦怠期になってどちらかが冷めるということもないのでしょう。

私たちがこうして日々何事もなく生活できているのは、私たち含め多くの人が本能(悪)を理性(善)で抑え社会の秩序を保ってくれているからです。抑えられなければ今頃世界中でサドが信仰されていることでしょう。つまり理性のほうが本能よりも強いと言えますが、一瞬の衝動で本能が勝ってしまうときもあります。それがいい結果をもたらすときもありますが、いつ何時もハイドが飛び出す前にジキルで抑えることができるのが大人であり、それこそが人間として正しい姿なのではないでしょうか。人の心にはジキルとハイドが共存しているのですから、それを理解した上で正しい行動をしていかないといけないなとあらためて考えさせてくれる本でした。

何度も映画化・舞台化されている名作ですが、個人的には三谷幸喜監督の『酒と涙とジキルとハイド』という舞台が好きです。『ジキル博士とハイド氏』をベースにしながらも何も起こらない誰も変身しない(?)コメディ作品です。ぜひ原作を読んでから観てみてください。ちなみにサントラに河島英五は入ってません。

「道徳とは何か」「自分とは何か」に対する答えが少し見えてくる作品です。

追記:スティーヴンソンの妻の旧姓はオズボーン(メタラーの皆さん注目ポイントです)