江戸時代の外交資料「朝鮮通信使に関する記録」が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録されることが決まりました。
朝鮮通信使とは、どんなものだったのでしょうか。

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山本博文さんが書いた「江戸時代を探検する」 (新潮文庫)には、次の記載があります。
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通信使の随員の中には、段々と尊大な行動をする者も現れた。
出船の時に、前夜 出された夜具を盗んで船に積み込んだり、
食事に難癖をつけて、
魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、
予定外の行動を希望し、
拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあった。
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実は、上に紹介した金仁謙が来日したときの第11回朝鮮通信使の帰り際、ひとつの事件が起こっています。
明和元(1764)年4月6日のできごとです。

この日の昼、大阪の長浜の荷揚げ場で、朝鮮通信使の中の下級役人のひとりが、鏡を失くしたと突然騒ぎ出したのです。
通信使の都訓導(中級官人)の崔天宗という者が、これを咎め、
「日本人は、盗みの仕方が上手だ」と、悪口を言いました。

このとき、朝鮮通信使たちの通訳をしていた対馬藩士の鈴木伝蔵は、自分で落して失くしたのか、盗られたのかもまだわからないうちに、日本人を泥棒呼ばわりするのはけしからんと、崔天宗にこのときとばかり、
「あなたは日本人のことをそのように言うが、あなた方は食事の際に出た食器や飾りの品々を、勝手に持ち帰っているではないか。これをどう思うのか」と言い返したのです。

すると鈴木伝蔵に痛いところを突かれた崔天宗は、突然火病を起こして怒り出し、人々が見ている前で、鈴木伝蔵を杖で何度も打ち据えました。

鈴木伝蔵は、自分はあくまで通詞(通訳)であり、朝鮮通信使たちをもてなす立場です。
だからその場では、我慢しました。
けれど、下級武士とはいえ、武士は武士です。

杖で打ち据えられて、ただ黙っていたのでは、武士の一分が立ちません。
思いつめた鈴木伝蔵は、その夜、崔天宗の喉を槍で突き刺して殺害し、奉行所に自首し、切腹しました。

よく、朝鮮使節をさして、「日本に儒教をはじめ、さまざまな文化や技術を伝承した」と書いている教科書などがありますが、残念ながら鶏泥棒の文化や技術が、日本に伝承されたという記録はありません。
つまり、朝鮮使節が日本に文化を伝えたなどという事実は、まったくないです。

当時の朝鮮からの日本の輸入物は、朝鮮人参と、支那産の生糸と絹織物です。
他方、朝鮮通信使たちが喜んで持ち帰ったのが、サツマイモでした。
当時の朝鮮は、毎年のように飢饉が発生していたのです。
ところが日本では、飢饉のとき、サツマイモを栽培(芋は収穫が早い)して、多くの人が助かったという話から、通信士使たちは、種イモだけでなく、植え方、貯蔵法、料理法まで学んで持ち帰り、自分たちのためにこれを栽培したといいます。

ちなみに、この朝鮮通信使によって朝鮮半島に日本から持ち込まれたものに、タバコと唐辛子があります。
いま、朝鮮料理といえば、唐辛子を使ったキムチが定番ですが、キムチに使われる唐辛子は、日本から朝鮮半島に伝わったものです。

鎖国をしていても、海外の動勢は、国家として常に監視しておかなければならないのは当然のことです。
ですから、ほんのわずかな窓口での交流は続けましたが、ものめずらしい外国人が来日するとなれば、中央から歌舞伎一座や、相撲興行がやってくるというのと同じで、大歓迎するのが、日本の庶民の常です。
ですから朝鮮使節を迎えるための踊り、なんていうのも、今に伝えられています。

ところが、肝心のこの朝鮮使節、実にとんでもない連中で、自称朝鮮国王の使いでありながら、道中で、まるで不良中学生ばりに、道中で悪さばかりする。
一回の通信使でやってくるのは、だいたい450人くらいの団体です。
そのうちの100人の水夫が大阪に留まり、350人が、徒歩で江戸向かっています。
釜山を出発してから、半年くらいの滞在です。
さらに、朝鮮通信使には、対馬藩から800人の護衛の武士が同行しています。

800人の警護がいてさえ、朝鮮通信使は、あちこちで問題を起こしたのです。
幕府は、この朝鮮通信使のために、毎度100万両の予算を計上しています。
それだけの接待をしたのです。

けれど、彼ら朝鮮通信使たちは、風呂にはいる習慣がないから臭い。
日本の旅籠や、街道のあちこちにある茶店には、いまで言ったらコンビニみたいなもので、ちゃんとトイレがあるのに、路上で大小の用をたす。
朝になると、350人が一斉に、往来の路上で大用をたすことを考えてみてください。
どれだけ迷惑なことか。

けれど、街道の村々では、30年に一度のこの朝鮮通信使たちの歓迎のために、歓迎のための踊りや祭りなども企画し、実行しています。
負の面もたくさんあったけれど、それでも歓迎をする。
楽しかった思い出を、たいせつにする。
それが日本人です。


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そうそう、最後にひとつ。
朝鮮通信使は、壱岐対馬を通って来日したのですが、壱岐を治める平戸藩では、使節の無事な航海を祈って藩主自らが、邇自神社(にじじんじゃ)に参拝し、順風祈願をしています。
表向きは、あくまで、無事な航海を願ってのことです。

けれど、本音は、
「一日も早く壱岐から出て行ってもらいたい」
というものでした。

隣人と仲良くする、常に仲良くしたい、というのは、日本人の変わらぬ習性です。
けれど、まともな人たちなら、そうやって仲良く暮らすことはとても大切なことだけれど、まともでない人たちまでごっちゃにするのは、国民の生活そのものを破壊する原因となります。

冒頭に掲げた朝鮮通信使一行の図は、まことに豪勢な行列です。
幕府は、30年に一度の朝鮮通信使の行列のために、莫大な予算を計上して、通信使たちの行列を荘厳しました。
けれどそれは、あくまで30年に一度のイベント毎だったからです。
逆にいえば、それだけのおもてなしはするけれど、それ以外には「朝鮮人は来るな!」ということなのです。

私は、支那、朝鮮(韓国、北朝鮮)について、限定的な鎖国を実施せよ、国内にいる在日外国人の通名を廃止せよ、という立場をとり、国政にそのはたらきかけをしていますが、これは民の生活の安全と安穏を保つための、最低限の国の使命であると思っています。