だけどぼくらはくじけない
 泣くのはいやだ笑っちゃおう



もうすぐ紅葉のシーズンとなりますが、百人一首にも紅葉を詠んだ歌があります。
そのなかのひとつが春道列樹(はるみちのつらき)です。

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 山川に風のかけたるしがらみは
 流れもあへぬ紅葉なりけり 

(やまかはに かせのかけたる しからみは なかれもあへぬ もみちなりけり)

とても好きな歌です。
作者の春道列樹は学生で、何か深い悩みを抱えていたようです。
そこで京の都から、大津にある崇福寺(すうふくじ)に、教えを乞いに向かいます。
この歌が、その「行き」に詠まれた歌なのか、「帰り」に詠まれた歌なのか、それはわかりません。

ただ彼は、志賀街道を歩いているときに、街道脇から見下ろした川面に、たくさんの紅葉(もみじ)が落ちているのを見るのです。
川面に吹き寄せられたもみじの葉は、一枚一枚が、みんな違う色やカタチをしている。
そこで彼は思うのです。

「そうか。そうなんだよな。
 俺ひとりで生きているわけじゃない。
 もみじの落ち葉が一枚一枚違うように、
 人もまた、ひとりひとりがみんな違う。
 そんな違う人たちが、
 ひとりひとり、落ち葉になってさえも、
 それでも一生懸命に生きている。
 悩んだり苦しんだりしているのは
 俺だけじゃない。
 みんな同じなんだ。」



それで春道列樹が「よぉし!俺もがんばんなきゃ!」と言ったかどうかまでは知りません(笑)。
ただ、いまから千年もの昔に、そんな思いを歌に詠んだ、若い学生さんがいたのです。

最近ではこのうたの通釈として、単に、
「ビジュアル性に富んでいる美しい歌である」
と、わかったような意味不明の解釈をしているものを多く見かけます。

それだけではないのです。
そのことは、歌をよく見たらわかります。

「しがらみ」に、「流れもあへぬもみじ」なのです。
人間関係のしがらみに、悩んだり苦しんだり、ときに落ちこぼれて落ち葉になって川面に浮かんだり。
けれど、そんなもみじの葉は、一枚ごとにみんな違うのです。

誰もが、それなりに自分の境涯のなかで一生懸命苦しんだり悩んだりしながら、それでも毎日懸命に生きている。
悩んでいるのは自分ひとりじゃない。
みんな同じなんだ。
だから「がんばろう」って、春道列樹は詠んでいるのです。
人間関係は、ときにわずらわしさを感じさせることもあるけれど、だけどそれこそが生きている証なんだと詠んでいるのです。

民衆が天皇の「おほみたから」とされるというわが国の古来の体制は、実はそういうひとりひとりを誰もが大切に思う心によって形成されています。
だから日本では、主役は「俺」ではなくて、「みんな」なのです。

百人一首の選者の藤原定家は、この歌がことのほかお気に入りだったようで、みずから本歌取りして、

 木の葉もて 風のかけたる しがらみに
 さてもよどまぬ 秋の暮れかな

という歌を残しています。「紅葉の落ち葉が風に吹き寄せられている「しがらみ」であってさえも、それが紅葉なら澱(よど)みとはいえないよね?」という歌です。

ひとりひとりが大事。
そういう思いが定家にもあったからこそ、定家は、自分よりもはるかに年下の学生であった春道列樹の歌を、お気に入りの歌にして、自身の作品まで詠んでいます。

人形劇『ひっこりひょうたん島』のテーマソングに、

 丸い地球の水平線に
 何かがきっと待っている
 苦しいこともあるだろさ
 悲しいこともあるだろさ
 だけどぼくらはくじけない
 泣くのはいやだ笑っちゃおう





という歌詞があります。
春道列樹の歌にも通じる心がここにもあるように思います。
「だけどボクは、くじけない」ではないのです。
「だけどボクは、くじけない」なのです。

日本は世界で最も古い歴史を持った国です。
なぜ日本が、世界で最も古い歴史を織りなしてこれたのかといえば、それは、ひとりひとりをどこまでも大切にしていこうという心を、国の根底においたからです。

昨今、そうした日本の国柄の素晴らしさを利己のために悪用し、国を乱すことを生業としている人たちがいます。
そういう人たちにさえも、一日もはやく、ほんとうの日本に気付いてもらう、利他ということの素晴らしさに気付いてもらう。
たぶん、そういう戦いが、私たち日本人の戦いなのであろうと思います。