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11月8日は、昭和19年に、人間魚雷「回天」の第一陣の菊水隊の仁科関夫少佐以下が、山口県周南市、徳山港の沖合い10数kmのところにある大津島から、ウルシー、パラオ海域へ初の水中特攻に出撃した日です。
そこで今日は、その回天にまつわる、戦後のお話を書いてみたいと思います。

この大津島の基地指揮官の板倉光馬少佐は、みずからの出撃を再三要求していました。
けれど指揮官の勤めは回天の戦力化にあるとし、司令部は許可してくれません。
それでも出撃を強行しようとする板倉に、7月には多田武雄海軍次官がとんできて、
「おまえが出るときは、海軍が命令を出す」と、説得したそうです。

このとき板倉少佐は、大声で反論しました。
「指揮官先頭は帝国海軍の伝統です。部下を出して、なぜ私をのけものにするのですか」
多田次官も、
「軍司令部総長の命令だ」と、大声を張り上げました。
こうして板倉少佐は、志を果たせずに終戦をむかえたのです。

板倉少佐は、終戦の玉音放送のあと、身辺を整理し、割腹を図ろうとしました。

そこへ近くの平生基地で橋口寛大尉自決との報せがはいります。

終戦のとき、回天攻撃隊の橋口大尉は、出撃の直前に終戦の知らせを受けています。
大尉は8月18日のまだ夜が明けないうちに、純白の第二種軍装で威儀をただして回天の操縦席にすわり、拳銃を胸にあて、自決されました。
遺書には次のように書かれていました。

 吾人のつとめ足らざりしが故に、
 神州は国体を擁護しえなかった。
 その責任をとらざるべからず。
 さきがけし期友に申し訳なし。

 おくれても   亦おくれても  卿達(きみたち)に        誓ひしことば われ  忘れめや
      海軍大尉 橋口寛

大神基地では松尾秀輔大尉が、どこから持ち込んだか手榴弾に火をつけて、右胸の前で爆発させて自決されました。
自決の直前、松尾大尉は同僚に笑顔で、
「戦争に負けた以上、将校たる者は責任をとらなきゃなあ」と話したそうです。

それが8月25日の未明のことです。
この日、まだ夜明け前で寝ていた松尾大尉のお母さんは、枕元に、息子の松尾大尉が立って、
「お母さま」と、声をかけられて、目を覚ましました。
お母さんはびっくりして飛び起きたのだそうです。
そのとき息子の秀輔は、とても悲しそうな様子であった。
母は、このとき息子の死を悟ったそうです。

橋口大尉・松尾大尉の悲報を耳にした板倉少佐は、自決を心に決めました。
ところが呉鎮守府の参謀たちは、板倉に渾身の説得をしました。
「まだ戦争をつづけようという動きがある。お前がとめてくれ。それがお前の仕事だ。ポツダム宣言を受諾したのだ。部下たちを死なせてはならん」というのです。

現実に橋口大尉・松尾大尉の事件があった後です。
「指揮官として、部下を死なせてはいけない」
この言葉は、部下を死地に送り出した指揮官だけに、せめて生き残った部下たちは生かさねば、その勤めを責任を果たさねばという強い覚悟を板倉少佐に求めました。
けれどそのことは、板倉少佐にとっては、自決するよりも過酷なストレスでした。

板倉少佐は、妻子と離れて回天戦を指揮しているさなかの同年1月9日に、生後4ヶ月の男の子を失っています。息子の遺骨さえないのです。徳山の大空襲で、家ごとなくしたのです。

板倉少佐は過労と心労から、3月には訓練中に喀血までしています。
このうえ、生きてさらに、生き残った部下たちの面倒をしっかりとみなければならない。
文字通り血を吐きながら、勤めを果たした板倉少佐に、最後に届いた命令は「公職追放」でした。

『回天その青春群像~特殊潜航艇の男たち』(翔雲社)という本があります。
この本の著者のを上原光晴さんは、平成9年に板倉元少佐に会っています。
板倉元少佐は、このとき上原さんに、自分の死後、遺体を大阪の医大に献体すると申し出たと明かしたそうです。
「自分の体は当然、飛散して、なくなるべき運命にあったのだから」と彼は笑いました。
医大教授はいたわるように言ったそうです。
「わかりました。でも板倉さん、ゆっくりと、おいでくださいよ」

*****

終戦のとき、小灘利春中尉以下7名の回天搭乗員が、八丈島にいました。
島には米軍が昭和20年の10月に上陸し、その回天の解体を命じました。
火薬のつまった頭部は海に捨てられ、本体は収納してあった洞窟ごと爆破して埋められました。
ところがこの爆破で、洞窟の入り口がふさがっただけで、回天はそのまま残ったのです。

それから20年経った昭和40(1965)年8月、小灘大尉ら8名は再会して、炎天下の八丈島に向かいました。
残っているはずの回天を、掘り出して見に行こうとしたのです。

みんなで洞窟を掘り返しました。
ポッカリと穴が空き、そこから中に入りました。
けれど、回天はそこにありませんでした。

島の人に聞くと、昭和25年にはじまった朝鮮戦争のとき鉄が高く売れ、このときに古物商がやってきて回天を掘り出して持ち去り、売り払ってしまったのだそうです。
当時、占領統治下にあって日本人立入禁止となっていた旧日本軍の基地の跡に、朝鮮人たちが大量に入り込み、鉄くずを掘り返しては、これを売却してお金に変えていました。
おそらくは、そうした一派が八丈島にまでやってきたのでしょう。

話を聞いたとき、小灘大尉ら8名は、「男は泣くものではない」と知りながら、流れる涙をとめられなかったそうです。
泣いて、泣いて、
「回天はなくなってしまった。けれどそれでよかったのかもしれん・・」と語り合ったといいます。

ちょうど世の中は高度成長経済の真っただ中でした。
戦後の焼け野原からの復興で、街は活気にあふれ、人々の生活は、3c時代と呼ばれる豊かさの時代を迎えようとしていた時代です。
戦後の経済復興の中で、すでに鉄くずとして売られてしまった以上、いまさらどうなるものでもありません。
戦争は終わったんだ。だから「それでよかったかもしれん」。
当時の感覚としては、それもそうだったことでしょう。

けれど、たとえ戦争に敗れたとはいえ、回天は命をかけて戦った日本人の魂そのものです。
その魂を、なんの躊躇もなく、金儲けのために、売り払う。
日本人にできることではありません。

戦争が終わり、焼け野原となった日本は復興のなかにあって、なによりも生活や経済を再優先する気風が生まれました。
それは最近でも続いていて、財力のある人が「勝ち組」、ない人が「負け組」などと言われるようになりました。

けれど、お金があれば、あるいはお金儲けのためならば何をしても良い。人間社会というものは、果たしてそういうものなのでしょうか。
個人の欲望のためには、他人の心など踏みにじっても良い、そういうものなのでしょうか。日本人は、そういう民族なのでしょうか。

日本人の劣化が進んできているといわれて久しいです。
このことを、言葉は悪いけれど、日本人の朝鮮人化と呼ぶ人もいます。
十把一絡げに朝鮮の人を悪く言うことには抵抗がありますが、けれど個人の利得のために世の中を乱す不逞な者は国籍民族に関わらず社会の敵として、これを糾弾するのは当然のことでしょう。
けれど、それだけではいけないと思うのです。

そのような不逞な輩に国内を壟断されるのは、それは私達日本人にスキがあるからです。
日本人としての民族の自覚、日本人として堂々とした歴史伝統文化への自覚と誇りを持ち、わたしたち日本人がそれを国の内外に向けて堂々と情報発信できるようになるならば、連中の付け入るスキはありません。
わたしたち日本人自身が、自信も誇りも失い、ほんとうのことを学ばずに育っているから、おかしな連中につけこまれるのです。

回天を鉄くずとして売り払った人たちがいました。
そういう連中に国を壟断され続けてきたのが、戦後の日本です。
なるほど、そのような連中は、道義道徳に一切縛られることなく、おのれの金銭欲を満たすために、ありとあらゆる傍若無人を発揮したのですから、戦後、すさまじいばかりの富を手にしたかもしれません。
けれど悪銭身につかずなのです。

日本人が歴史伝統文化の深みを取り戻すということは、世の中の価値観が変わるということです。
そしてその価値観を変える戦いが、実は、日本を取り戻すということなのではないかと思います。





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