はじめに

東日本大震災で犠牲になられた全ての方々の

ご冥福を心からお祈り申し上げます。










少しだけ思い出してみると・・・




あの日私は新潟の自宅にいました。



震源が宮城と知って血の気が引き

テレビの速報から15分後には車を走らせていました。



高速道路は津川で下ろされ

ガソリンスタンドで津波が来ていることを知らされ

引き返すように言われましたが

無我夢中で家族を目指しました。



途中、妊婦さんがヒッチハイクを求めていてお乗せました。

何か喋っただろうか・・・覚えていません。



覚えているのは死ぬのかもしれないという

不思議な覚悟と異常な高揚感。


今思えば情けないことに

パニックになっていたんだと思います。




今までの人生は

この天災を乗り越えるためにあったんだと

変わり果てた故郷を目の当たりにした時、知りました。





やっと家族と会えたときも

死ぬほどほっとしたのに

涙も出ないほど変なテンションでした。




私の実家は

建物の被害だけで、家族の命は無事でした。


それだけで・・・本当にありがたい。






この3年。


宮城と新潟を 行ったり来たりしながらも


私は新潟で暮らしています。


仕事を辞め仙台に帰ることもずっと悩んでいました。


でも新潟で暮らすことを今も選んでいます。


もちろん家族も この選択を応援してくれています。




振り返ると

これでよかったかどうかは自分でもわかりません。


もっとやれることがあっただろう。


もっと捨てられることがあっただろう。


もっと目を見開くことができただろう。





この3年で深めてきた縁に

寄りかかって生きてきたら・・・今日になってた。。。



そんな感じなのかな。。。。





地震や津波がなかったら

一生交わることはなかった縁がたっくさんあります。


宮城にも。 福島にも。 新潟にも。 

何にも代え難い出会いばかりです。



被災地の方々からも

新潟の皆さんからも

どれほど力をいただいたことか。



∞ むげん。





ドキュメンタリー映画 「うたごころ」を観ました。
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被災地で暮らすひとりひとりの気持ちを

考えると辛すぎて目を閉じてしまいそうだから

自分の中で「震災はこうだった」という箱に

しまいこみながら生きていることに気がつかされたというか・・・

きちんとその「箱」を開けて向き合って行きたい。




中越地震の被災地 小千谷の方に昨日聞きました。


10年が経ち 市民の8割ほどが「復興したという感覚」を

ようやく持てるようになったみたいだと。。。




まだまだこれから。






これからも つながりに感謝して生きていきたいです。




大勢の方に力を貸していただいた3年でした。

あらためて 心から感謝申し上げます。



本当に本当にどうもありがとうございます。





出来ることを続けます!


ツアーもやろう! HOPE Tシャツも続けよう!


一人じゃできないけど

みんなと一緒なら絶対に出来る!!





なんともまとまらないけれど

そんなことを考える大切な一日でした。