我孫子に引っ越して2年が過ぎた(昭和48年)ある日曜日の朝、ピンポンとドアホンが鳴りました。

「おはようございます。おじさん早く来てください」の言葉に、「どうしたの?君たちは誰?」
「おじさん、監督でしょう!」何のことか飲み込めないままでいると、階段のいちばん後ろの方にいた、向いの棟の伊藤君がいました。
“そうか伊藤君が言っていた監督はというのは、野球のことか”と、気が付き、
「ところで、なんでこんなに早く来たの?」の問いに「早くしなければグランドを取られちゃうよ~」。

何はともあれ付いていくと広い空き地に、すでに数名の子供と一人の大人がネットを張るところでした。
子供たちに事情を聴くと、(暗黙のうちに)早くネットを張った者が利用の権利があるそうです。
そこに居合わせた人(野口さん)に何とか少しでも使わせてもらえないかと交渉しましたが、「だめだよ」の返事。
仕方なく子供たちに話すと「なーんだ」と軽蔑の眼で見られ、とりあえずその場に座り、6人の子供たちと話をしました。

小島明です」「官野です」「増田博です」「伊藤です」「早野です」
あと、一人がどうしても思い出せませんが、それよりも簡単に引き受けた監督とは?野球とは?
だって、私には経験がありません。

事情を聞くうちに、この子達は目の前でネットを張っているチームに入れなかった子供達(入団テストに受からなかった)だと分かりました。この子達の気持ちがようやく理解できました。

いつの間にか目の前の空き地は百人近い子供の数に。
あ、思い出しました。もう一人の名前の子は、「大内健二でした」
その健二が、「俺たちは入団テストに落ちたんだ。でもあいつらには、負けないよ!」という声を聞くうち、
やってみるか
たかが少年野球、されど少年野球。
ここから私の35年間の少年野球スポーツ少年団活動が始まり、多くの人達と出会うことになりました。
今年、阪神の監督に就任した和田豊、現日本ハムの金子誠、引退はしたが近鉄で11勝をあげ新人賞の酒井君(のちにTVにて引退の選手の特集で久しぶりに彼の姿を観る)、その他たくさんの人たち。
何よりも在籍中、出会えた子供達(私宛に入会承諾書を提出した数、8571名)。
少年野球は今日の私のホームベースですね。

大会でも挨拶をすることがありましたが、その中味は殆んどが自分の子供の頃に聞いた話を引用していましたね。

「自分の生まれ故郷の祝島では、生きのいい鯛が採れる。その天然の鯛で100杯の吸い物ができる。養殖の鯛では、そうはいかない。ここにいるみんな!だがら、天然の鯛になれるよう努力しろ。100杯の吸い物がとれる鯛になれ!養殖の鯛になっちゃつまらんゾ!」
ある閉会式では、態度の悪い優勝チームの選手を(今では考えられないでしょうが)ビンタしたことがあります。
こんな調子ですから、後で親たちから苦情の電話が多数ありました。でも、中には共感してくれる人もいましたよ。


そのなかで、話の中身が面白い、変わっているとのことで、来賓に来ておられた平野貞夫氏からお声をかけて頂きました。それ以来、お付き合いをさせてもらっています。ご存知でしょうが、小沢一郎氏の側近としてTVによく出演されていました。おかげで小沢氏とも会食することが出来ました。それをきっかけに多くの政治家と出会うことになりました。上関原発の事も話しました。その時のことは後日書きます。

おっと、大事な事を忘れてました。引き受けたチーム名は、
ブラックフェニックス
そして私の鬼の監督人生がスタートしました。

続きは又。